Act01

========== ACT 1 ==========

----- SCENE 1 -----

 --とくにジャンルはない。

 漆黒の画面に、ぼうっと浮かび上がる電子の文字列をいとおしそうにしばらく見つめてから、カチっという音とともに、ソイツを閉じた。
 まえの晩からあれこれ考え抜いたあげく、亀井遠士郎は、けさ出がけにたった一行、そう書いた。
 書き出しなんて、どうでもいいさ。深刻になったって、前に進むもんか。下手くそなところは、あとから書き直しゃいい。紙に書いたものと違って、コイツならいくらでも手直しがきくんだから。
 そんな独り言をつぶやいた瞬間、激しい揺れと圧迫が、これでもか、これでもか、と亀井を襲う。乗車率三〇〇パーセントを超える車内の空気は、人々の呼気で湿っぽく生温かい。酸素も不足気味だ。
  地下鉄という乗り物には悪意などない。そんなことは乗り合わせているサラリーマンやOLも先刻承知だ。原因はどの企業も同じ時間に仕事を始めるということ である。鉄道会社がいくら時差出勤を呼びかけたって、一介の勤め人がああそうですかと二時間遅れで出社するなど許されるはずがない。
 ただひたすら運ばれる。勤め人の朝一番の仕事は、それだけなのだ。苦しいのは自分だけじゃない。そう思うと、亀井は肘や膝の力を抜き、人々の迷惑にならないよう努めるのであった。
 いだだッ。
 亀井の足の甲に激痛が走る。革靴の足の甲に、ハイヒールの踵が刺さっている。
 わっ。
 頭をのけぞらせた途端、異臭が頬を撫でる。ニンニク健康法のオヤジの不快な吐息が寄せては返し、鼻がもげそうになる。
 うぐぐぐぐ。
 しっかりせい。あと四駅、あと三駅…、もう少しの辛抱だ。
 そう自分に言い聞かせ、押しつぶされそうな自分の体に無機質な機械であれ、と命じる。
 ようやく地下鉄は御堂筋線の本町駅に着いた。ドアがきしみながら開く。
 これが運送トラックなら違法積載で反則切符だぞ、ばっきゃろめ。
 いつもの言葉をいつものようにつぶやきながら、眉間にしわを寄せた亀井は吐き出される。
 地下の通路はアリの巣並みに混み合っていて、人を縫って進むのに骨が折れた。狭い通路を数珠つなぎに進むサラリーマンとOLの群れは、さしずめ兵隊アリの隊列で、そんな中に亀井もいるのだ。
 ただ、けさの亀井の表情は、普段より心なしか穏やかだった。なぜなら、亀井はソイツを、胸の前で大切に押さえていたからだ。
 ソイツというのは、姉小路無線の手のひらパソコンである。風呂に入るとき以外は、肌身離さず持ち歩くことにしていた。そうし始めたばかりだ、といったほうが正確だ。
 重さ三〇〇グラム足らず、横一七・一センチ、縦八・四センチ、厚さ二・二センチと、コートを型崩れさせるには十分なサイズではあったが、むしろ、その胸の膨らみを誇らしく思った。
 コートのポケットにしまった手のひらパソコンを上からなでると、眉は八の字になり、唇がつり上がる。
 正解だったな、コイツを買ったのは。亀井はひとりごちた。
 行列に加わったまま階段を上り終えると、ようやく日の当たるオフィス街に出た。少々ほこりっぽいが、ようやく肺いっぱいに空気を吸い込める。ふと、亀井はコートの内ポケットから姉小路無線の手のひらパソコンを取り出した。歩きながら思わずソイツを開いてみる。
 歩く書斎か。おお、これも悪くないぞ。
 小さな手のひらパソコンのおかげで、長らく続いてきた朝のしかめ面とは、これでお別れだなという予感があった。
  それにしても、自分がパソコンを使うことになるなんてなあ。つい一週間ほど前まで、そんなことは夢にも思っていなかった。しかも、よりによってノートパソ コンよりも小さい手のひらパソコンときたもんだ。会社で女子社員が伝票処理をしているデスクトップパソコンさえ触ろうとしなかった自分が、いきなり小さい やつをさりげなくコートの内ポケットに入れて歩いているのである。胸の奥で、なにか新しいことが起きそうな期待がうずく。ヨォーシ! という気分なのであ る。
 それもこれも、門土知安に強引に勧めてもらったおかげなのだ。
 「そら、スレイヴしかおまへんがな!」そんな門土の言葉が蘇ってくる。

----- SCENE 2 -----

 スレイヴというのは、亀井のコートの内ポケットに入っているパソコンの商品名であり、かつての部下、門土知安から強引に買うように勧められたものだ。
 ちょうどひと月ほど前の晩だった。亀井は、なぜだかわが家に直行するのが気が進まなかったものだから、門土を飲み屋に誘った。
 営業二課からシステム保守課という何をやってるのかよくわからない部署に飛ばされた門土が、そこで機嫌よくやっているかどうかも訊ねてみたかった。
 その夜、門土は紺ブルゾンにジーンズ姿といういかにも技術社員らしい姿で暖簾をくぐってきた。そんな門土を見たとき、亀井は少し寂しい気がした。
  亀井の頭には、会社の屋台骨を支えているのはやっぱり営業だという思いがある。営業から外される。それはきっと寂しいことに違いない。もし自分がほかの部 署に飛ばされでもしたら、うまくやっていけるだろうか。不馴れな仕事を覚えなければならないのもさることながら、なんというか、その、プライドを傷つけら れるんじゃないだろうか。そして、門土の心の中にも、そんな痛みがあるのではないか。できることなら、門土を再び営業二課に戻してやりたい。
 そんな気持ちを知ってか知らずか、門土は背広を着ていたころと全く変わらず、暢気というか、ひょうひょうとしていた。まずビールで乾杯をしてから、亀井はシシャモをかじりもって、それとなく新しい職場の居心地を訊ねてみた。
 「そらサイコーですわ。まっ昼まから機械で遊んでられるんですから」
 門土はからし明太子にタバスコをふりかけたものを箸でつつきながら笑ってみせる。
 無理しとるんじゃないかな。コンピューターなどを触って、いったいなにが面白いというのだ。無理はいかんぞ、無理は。
  たしかに門土の営業成績は悪かった。弐志和彦部長[*1]から使いものにならんという烙印を押されたのは無理からぬことなのだ。だが、こいつは妙にまっす ぐなところがあり、話をしていて飽きない面白い男である。できれば長い目で見てやりたい。そんなふうに亀井は考えていた。
 しばしの沈黙が訪れる。営業に戻りたくないか、みんなと一緒に背広着て、アタッシュケース持って… そんな言葉を切り出すべきかどうか亀井が迷っていたとき、門土が先に口を開いた。
 「で、書斎のほうはどうですのん」
 七味唐辛子で真っ赤になった冷や奴をパクつきながら門土は、逆に、心配そうな顔で亀井をのぞき込む。
 「おお。それは、ちょっとな」はからずも亀井の動きが一秒ほど止まる。
 門土はきょとんとしていた。それもそのはず、亀井が郊外に家を買うことになったとき、門土を前にして、俺もいよいよ書斎を持てるのだと、少々誇らしげに話したことがあったのだから。
 しかし亀井は、結果的に、書斎を持てなかった。いや、持たせてもらえなかったのだ。それもこれも……
 「ほら、二階に六畳間が二つあって、ひとつは娘さんの勉強部屋で、もう一つがカメさんの書斎になるんや、て言うてはったですよねえ」
  そうだ。そうだよ。その通りだ。書斎を持つってのは、長年の夢だったんだ。随筆のようなものを書いてみるのもいい。文学や哲学、思想といったものに本格的 に触れてみたい気もする。仕事一筋だった自分の人生に欠けていたものを、そろそろ取り戻してもいい頃だ。別に仕事が嫌というわけではない。仕事を通じて得 られたものは大きな財産に違いない。だが、それだけで得られないなにかを、書斎という自分だけの空間で模索してみたかった。それもこれも……。
 「いっぺん、書斎とやらにお邪魔してみたいなあ、ボカぁ」
 そうさ、それもこれも……、みんなアイツのせいだ。アイツさえ余計なものを書いていなきゃ。そんな思いが脳裏をかすめ、亀井は体を硬直させる。
  亀井がアイツというのは、学生時代に同じゼミにいた男である。卒業してから長らく忘れていたのだが、妻が購読している雑誌に、なんと、アイツが、風水とか いう占いコラムを連載していて、妻と娘がそれに染められてしまったのだ。女どもは熱に浮かされたように、何冊もの風水本を読みあさり、アイツの説く風水ラ イフに突入した。結果、書斎になるべき部屋を奪われてしまったのである。
 「ねえ、カメさん。カメさんったら」
 なんて野郎だ。ちくしょ う。あるときはジャーナリスト、またあるときはエコノミスト、はたまたあるときはエコロジスト、と次から次へ肩書きを変えてブラウン管の中ではしゃぐ軽佻 な姿は、学生時代からちっとも変わっちゃいない。人に調子を合わせる能力には長けているが、いつも小狡く立ち回るだけ。他人が汗水流した成果を自分の手柄 にする奴で、卒業前にはゼミでも自治会でもすっかり鼻つまみ者だった。
 そうした細々としたことを思い出すうちに、亀井はのどを越すビールがいつもより苦く思えた。
 「実はな…」亀井は門土にそんないきさつを愚痴っていた。
 「なんや、そんなことがあったんですか」門土は練りワサビと練りカラシをスプーンで舐めながらにやりと笑った。「ほな、どこでも書斎を買いましょか」
 「どこでも書斎って、その、駅弁の売り子みたいな格好しろっつーのか」
 「いーえ、HPCとかPDA[*2]とかいわれてるヤツ、つまり、手のひらに乗る小さなパソコンのことですよ。ボクんとこ、1Kのアパートやから、書斎なんてないんですけど、これで十分ですよ、これで」
 門土はそう言って胸の内ポケットからそれを出すと、手のひらの上に乗せた。
 「なーんだ、ザウルスか」
 「いーえ。あれは電子手帳。ボクがいってんのは書斎です。僕なんか、これだけですよ」
 門土の仕草は、ずいぶん前に、竹村健一が眠たそうな顔で宣伝してた手帳のCMの、それだった。亀井は吹き出しそうになったが、その晩は、姉小路無線の「スレイヴ」について、門土にプレゼンしてもらった。
  専門用語をすっとばして聞いている限りでは、その小さなパソコンには、ワープロや表計算、それにパソコン通信の実用ソフトなどがぎっしり詰まっていて、や りようによっては国語辞典や英和辞典といったものも使えるうえ、世界中のあらゆる情報を取り寄せられるという。とにかくそんな夢のような機械だそうだ。
 「もー、これしかおまへんわ。僕なんか、電車の中でも、ベッドの中でも、便所の中でも、いっつも一緒ですから」
 亀井は苦笑せざるを得なかった。それくらいの熱意で仕事をしていれば、システム保守課などに飛ばされることもなかったろうに。

 そんなことを思い出しながら、亀井は会社へと急ぐ道みち、スレイヴのふたを開けてみた。
 画面は、まだあの一行が表示されたままで、文末でカーソルが点滅している。

 --とくにジャンルはない。

----- SCENE 3 -----

 亀井の勤め先は古くさい会社で、中間管理職は朝礼でなにか適当な訓話めいたものをしゃべらなければならない。それは歳月を経て何十人もの課長の足で踏み固められた動かし難い慣例となっている。
  最近でこそようやく馴れてきたものの、課長になってしばらくの間、亀井は自分がくだらない人間に思えてたまらなかった。景気がどうの、経営環境がどうの、 そんな説教してどうなるってんだ。トフラーやドラッカー[*3]がどうした。長谷川慶太郎が、日下公人が、堺屋太一がなんぼのもんだ。ウォルフレンが書い てることに心痛めてるヒラ社員なんているもんか。
 目ヤニをためたままでも、どうにか出社してきてくれる部下に感謝の念さえ抱く亀井である。朝っぱらからカツを入れるなんて、できっこないのだ。
 リーマン生活十八年の亀井が自信を持っていえるのは、ただひとつ。朝は眠い。それだけだ。
 きょうも元気にガンバロー、なんて唱和をするくらいなら、日計産業新聞を読んでるほうがマシですよ--。もう何年も前のこと、前任課長の弐志和彦に直談判したことがあった。
 若い社員の提言が職場を活性化させるんだ。だからどんな些細なことでも言ってくれたまえ。わが社は風通しの良い会社なんだからな。そう言ったのは弐志だった。しかし、亀井の提案に、弐志は厚ぼったい唇に笑いを浮かべていった。
 --ええ話聞かせてもろて、おおきに。
  次の朝から、亀井は唱和に参加せずひとりで日計産業新聞を読むよう命じられた。若気の至りだった。言葉通りに信じた自分が甘かった。ウブだった。青かっ た。ガキだった。青かった。亀井が弐志に「わたしも唱和に混ぜてください」と泣きついたのは一週間後のことだった。そんな時代もあったが、そんな俺が朝礼 でしゃべってるんだものなあ。
 「や。おはよう。えー、いわゆる、その」無表情の部下たちがこっちを向いてぼーっと立っている。「景気は足踏み状 態です。足踏み、ね。おぃち、にっ、おぃち、にっ。ねっ。経済企画庁の景気動向指数[*4]が一年以上も五〇パーセントを割り込み、通産省の鉱工業生産指 数[*4]も長らく低迷しておりまして、日銀短観[*4]もぱっとしません。財界は政府に対して法人税率の引き下げと追加的景気対策を声高に要求するにい たり」
 ネタがないときはとりあえず日計新聞の請け売りだ。むろんカマシである。しゃべってる亀井自身、よくわかってないのだ。景気情勢に続いて業界動向というのが、お決まりのパターンである。
  「で、ありまして、ひところは羽振りの良かった金融・証券、ゼネコン業界など、いまや見ちゃおれません。バブル時代の過剰な不動産投資のツケで、小さな会 社から大きな会社までバタバタと潰れております。本当ですよ、そりゃ、もう、バタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタ」
 そして業界をリードする大企業、つまり自分たちの親会社へのゴマスリもさりげなく織り込む。親会社からの出向社員に向けたリップサービスである。
  「しかしながら食品業界というのは、誠にもって堅実でありまして、それもこれも業界のリーディングカンパニーがしっかりしておるおかげですが、昨今は人々 の健康志向や地球環境への関心の高まりもあり、星永食品グループの一員たる我らも、決して安閑とはしておれません。できればグループの中で、小さくともキ ラリと光る[*5]存在になる必要があります。冒頭述べましたように、景気情勢は先行きが見えませんが、こういう時代だからこそ営業二課も一致団結してで すなあ、この難局を乗り切らねばならんのだよ! っちうことですわねえ」
 と、そこまできて、亀井は、ウム、と軽くうなづいてみせる。準備はいいですか、いきますよ、という合図である。そして、締めくくりの儀式へとなだれ込む。
 きょうもガンバロー! 亀井が右手で拳を突き上げる。
 「がんばろ~」部下のふにゃふにゃした声が続く。
 きょうもガンバロー! 亀井はちょっと大きめの声をあげる。
 「がんばろ~」部下たちの声が心なしか大きくなる。立ったまま居眠りしていた部下が目を覚ましたのだろう。
  小さくともきらりと光る。朝礼ではそう言ったが、亀井の勤め先はかつては全国に名前を轟かせた菓子メーカーだった。まだ大阪が商業の中心だった一九六〇年 代のこと、テレビCMにカワイ子ちゃんを起用したことだってある。しかし近代経営を知らない創業者が占いに凝って二度の不渡りを出し、つながりがあった総 合食品メーカー星永に救済を仰いだのだ。いまでは華やかな洋菓子など作らせてもらえず、サバ味噌煮缶詰やハムスターの飼料などを星永ブランドで細々と製造 販売させてもらっている。小さくともきらりと光る可能性はほとんどないのである。
 「カチョー、お電話です」
 「おお、回してくれ」
 「カチョー、報告書できました」
 「おいおい、なんだ、これ。漢字も知らんのか。書き直しだッ」
 亀井は午前中、たいてい社内にいる。社内の連絡事項を確認したり、新規開拓した取引先に様子うかがいの電話を入れたり、孫請けや曾孫請けの会社から訪問を受けたり、とかく雑用に追われ続けるのだ。
 「カチョー、お客様です。やわらか銀行の祖さん[*6]がお見えに」
 「おお、買い物狂いの若ハゲか。よっしゃ、いちおう応接室に通せ。コーヒーはいらんぞ。うんと薄い番茶でかまわん」
  気楽な稼業ときたもんだ~などというノリではやっていない。仕事は熱心にしてきたつもりである。右上がりの成長神話は吹き飛び、終身雇用や年功序列も崩れ た。定年まぎわの肩たたきも珍しくない。だからこそ、亀井はそれなりに楽しもうともしている。豪快がうりものだった前任課長には及ばないが、率先して明る く振る舞い、職場を楽しくしようと心がけてもいる。
 系列の下流に位置する小さな会社だが、規模が小さいからこそ、四十歳で課長にもなれた。処遇 に不満はない。仕事を通じて勉強させてもらった。サバの味噌煮であろうとハムスターの飼料であろうと、ちゃんと世間様の役に立っている。濡れ手で粟のよう な人様から後ろ指さされるようなことはしていない。まっとうに生きてきたという自信だってある。
 なのに、アイツのようないい加減な野郎のせいで、書斎が持てなかったなんて、そんな馬鹿な話があるもんか。ちっくしょー。
 亀井は机の片隅に置いていたスレイヴをそっと手に取る。そして、ブルーグレーのボディを撫でてみる。
 こいつでもって書いてやる。まっとうに生きてきた者が共感できるなにかを。ちっくしょーめ、目にものみせてくれるわ。
 と、視界の隅に人影が浮かび、近づいてきた。
 「へっへっへっ。見てたんですよ、後ろから」
 顔を上げると、門土の姿があった。駅を出て会社までの道みち、ソイツを開いて独り言をつぶやいていた俺に声もかけず、後ろからながめていたのだという。
 「ハマってきましたね、カメさんも」いじめっ子のように門土は口元を歪める。
 「おお、なんだな、その。そう、すこぶるだ。うむ、すこぶるいいな、こいつは」亀井の口元が緩む。
 「どうだ、昼でも一緒に」
 「ええっすよ。堺筋にエスニックのバイキング見つけたんですわ」
 「辛いやつか。よし、それもよかろう」
 「ごっつ辛いっすよ[*7]」
 「のぞむところだ。正午過ぎに迎えにきてくれ」
  門土ほどでもないが、今のご時世、営業二課にもパソコンの使い手は、いるにはいる。ただ残念ながら仕事の効率を高めるほどの使い手ではない。たとえば、窓 際に座っているサル顔の嵩山[*8]。「旧八」とかいうのを長年使っておるそうだ。そういえば掘多[*9]もやっとる。だが、あれはいかん。アメリカに語 学留学したというのを鼻にかけて「だすびぃー」だか「うぉーっぷ」だか、わけのわからん言葉を使いおって、嵩山をしょっちゅうからかっとる。
 いや、嵩山のほうも大人げない。掘多に向かって、ウォーム真理教の友だちがいたことを罵ったりするのも、ちと考えもんだ。
 「おい、掘多に嵩山、ちょっと来い」
 二人が雁首そろえて亀井の前に立った。
 「お前らに頼みがあるんだが」亀井は二人に注意したのは、伝票のフォーマット[*10]を統一しろということだった。二人とも好き勝手な書式で伝票を書くもんだから、OLたちが困ってるじゃないか、と叱りつけた。
 午前の仕事が一段落したところで、亀井はスレイヴのスイッチを入れた。またもや黒い画面に白い電子の文字が現れる。カーソルが、ご主人様の命令をひたすら待っておりますといわんばかりに、けなげに点滅している。

 --とくにジャンルはない。
 はて、この続きをこれからどう書き進めるかだな。

----- SCENE 4 -----

 堺筋にできた「キルドール[*11]」というエスニック料理の店は、千円の昼バイキングを出していた。扉には、スポーツカーやら小型飛行機のポスターがべたべた貼ってある。店主の趣味なのか。妙な雰囲気である。
 店に入るなり強烈なスパイスのにおいが鼻腔をつき胃酸がどっと湧き出た。漬け物は真っ赤なキムチ、スープは煮えたぎったタイのトムヤムクン、チキンは真っ黄なタンドリー、カレーは南インドのしゃぶしゃぶしたタイプと、アジア多国籍料理の店だった。
 「きょうみたいに寒い日は、スパイスに限りますね、カメさん」
 「おお、あくる朝、肛門がズキズキしたってかまうものか」
 そんな言葉を交わしながら、ワゴンにある辛そうなものばかりを大皿にテンコ盛りにして、二人はテーブルに戻った。
 いざ食わん。
 手始めに、軽い気持ちでカクテキをかじった途端、亀井の舌に、錆びた金串が貫通したような痛みが走った。
 つつつつつ。
 あわててシニガンというスープをすすったが、赤ピーマンに見えていた野菜は唐辛子で、その味は筆舌に尽くしがたかった。喉がやられて声を上げられず、腕と膝が震えだした。痛いのだ。すでに辛いを通り越している。頭に汗がにじみ、刈り上げのすそに汗が流れてひんやりする。
 くくくくく。
 やせ我慢はいかん、リーマンは体が資本だ。そんな説教を門土にしてみたいと思うのだが、顔の下半分の感覚がバカになっている。
  隣のテーブルでは、喉に手を当てて苦しむ赤ら顔の男や、腕をぶるぶる振るわせながら食い物を少しずつ口に運ぶ涙目の女がいる。だが、門土といえば、見てる だけで舌が焼けそうな熱々のトムヤムをガブガブすすり、テーブル備え付けのガラムマサラと唐辛子を、肉や野菜にドバドバ振りかけて涼しげな顔でパクついて やがる。
 「そだそだ」
 門土が思い出したように顔を上げた。
 「カメさん。辞書、いりません? デジタルの辞書[*12]」
 「へひはふのひひょ?」
 「そそ、デジタル辞書。書斎には辞書が付き物ですし、ちょうどええわ、いまコピーしましょ」
 そういうと門土は、自分と亀井の二台のスレイヴをちょこちょこっと操作してから、並べて置いた。
 「これでよし。二十分くらいで済むでしょ」
 そういうと門土はデジタル辞書の説明を始めた。
 「辞書って分厚くて重たいじゃないっすか。二キロ超すのなんてザラ。とてもカバンに入れて持ち歩くなんて無理でしょ。けど、デジタル化したら、何冊もの辞書がコイツにすっぽり収まるんですわ」門土は、かじりかけの青い唐辛子でスレイヴを指し示す。
 目に涙を浮かべる亀井は、聞いているのがやっとだった。
 門土は二台のマシンのファイル転送プログラムを起動して、赤外線通信をやるのだという。ただ、赤外線といっても、遠赤外線コタツのような大げさなものではなくて、ようはテレビのリモコンのような方式で信号をやりとりするのだそうだ。亀井にはさっぱりわからない。
 「ほーはっへふひょ?」
 「どーなってるのか、ちうと、ファイル転送プログラムの『融通ネエちゃん』っての使ぅてるんです。ほら、キーボードの青いキーがあるでしょ、ここ、この上の方に。その一番右のやつを押したら、『融通ネエちゃん』の画面になるんです。稲光が走ってる絵柄のキーね」
 スレイヴの画面にはファイルが次々とコピーされていることを示す表示が現れた。パーセントの数字が刻々と変わり、上から順に
 「100% ばっちりいただき!」
 となっていくのを見て、亀井はどぎまぎした。門土のほうの画面には
 「100% もってけどろぼー!」
 という文字が出ていた。門土のスレイヴを、目に見えない赤外線で亀井のスレイヴとつないで、デジタル辞書をコピーしているらしい。
 亀井のマシンがコピーしてもらっているのは、石波書店と四省堂の国語辞典、そして、民主国民社 『現代用語の応用知識』、昼日新聞社 『知恵増』、それから平本社の 『マイペダル百科事典』だった。
  「興味あったら画面、見てくださいよ、どすならではの画面ですから。ね、いいですか。まず左側からCopyちう命令があって、次に目的のファイルの名前。 そんで、それをどこへコピーするかという場所。これって、英文法と似てるでしょ。動詞+目的語+前置詞みたいに。コピーしろ+辞書を+どこそこに。これが どすの文法なんですわ。別に難しぅないでしょ。ただのどすですから」
 「……」亀井はひたすら水をがぶ飲みしたが、口の中はおさまりそうにない。
 「ファイル転送プログラムの『融通ネエちゃん』を使うと、そんなファイルのコピーができるんです。なんてっても、こいつ、どすですからね。やっぱり、どすでよ。どす、へへへ、どすどす」
 そうか。やっぱりどすか、どすだもんなあ、道理で気合い入っとるわな。そんな感想を言いたい亀井だが、香辛料でしびれた口では、まともな発音はできない。
 どす。ドス。DOSU…。むかしどこかで聞いたことがあるが、それがなんのことだか、わからない。そんなわけのわからない単語が飛び出したところでファイルのコピーは完了した。
 門土もようやく食べ終わり、帰りにお茶でも飲みましょうと訊ねる。
 亀井の顔がにわかにひきつるのを見て、門土は笑った。「辛くない喫茶店ですよ」
 キルドールの隣にある 「ナード[*13]」という安っぽい喫茶店に入るなり、門土はストロングというとびきり濃いやつを注文した。
 亀井は口がきけず、ウエイトレスに哀願のポーズでメニューを指さす。
 「最初とっつきにくいかもしれませんけど、おおえすのことくらいは知っといたほうがいいと思うんですわ」
 そんな門土の言い方が、亀井にはちょっと生意気に映った。次から次へとわけのわからない言葉を平気で使うからだ。だが、たくさんの辞書をもらった手前、大人げなく怒るわけにはいかない。
 亀井はミルクココアでバナナチョコクレープを流し込み、ただ黙ってうなづいていた。
 「勉強せんといかんのかな」
 「基本的なことはね。ほら、自動車の運転も、エンジンがどんなふうな仕組みなのか理解して、交通法規も覚えないとだめでしょ。マージャンだって役の作り方と点数計算を知らなきゃ遊べない。パソコンもいっしょですわ」
 「しかしだ」亀井は手元の週刊誌を開いて見せる。「この広告もそうだし、地下鉄の中吊り広告とか新聞広告でも、パソコンは簡単便利だと書いておるではないか」
 「そんなん大嘘に決まっとるやないですか。ほんまに簡単だったら『簡単じゃねえか[*14]』なんて宣伝しません。やめてくださいよ、弐志部長みたいにパニックになるのは」
 そういうと、門土は弐志部長から夜であろうと休みの日であろうと、お構いなしで呼びつけられていることを、こぼすのだった。
  メーカーのヘルプ電話は平日の午後五時に打ち切られる。世のオヤジが仕事から帰って、わが家でパソコンの電源を入れたときにトラブってしまったら弐志部長 に限らず、だれだってお手上げなのだ。それに、いま売られているパソコンなんて、テレビ並みに使えると思ったら大間違いだと門土はテーブルを叩いた。
 「ある程度のこと、基本的なところは押さえておいた方がええのです。どすとかおーえすのことは」
 「いったい何なんだ。どすとかおーえす、というのは」
 「よろしぃですか」門土はテーブルに両手をついて小鼻を膨らませながら説明を始めた。
 門土はコンピューターを電子計算機と言い換えた。つまりソロバンのおばけだ。
 ソロバンなら亀井にもどういうものかわかる。五を意味する玉がひとつと一を表す玉が四つ、縦に並んでいて、十進法で桁が繰り上がるやつである。
 だが、電子計算機はオンとオフ、つまり、0と1の二進法で計算している。つまるところ電子計算機はスイッチのオンとオフを猛烈な速さで繰り返しておるのだ。でも、いくらなんでも、そんな原理から説明してもらっていたら時間がいくらあっても足りない。
 「かい摘んで話せんのかね」
 亀井は不平を言ったが、門土は気にせず続けた。
  「計算機の内部には、二進法で計算する集積回路が詰まったチップがあって、計算を命じるには機械語で指示せなあきません。でも機械語というのは、人間の言 葉とはずいぶんかけ離れてまして、こんな言語を覚えるのはメッチャしんどい。んで、機械語を人間の言葉に近いような形に翻訳する方法が開発されたんです。 それがコンピューター言語というやつです」
 「そいつが、どすとかおーえすだな。わかった、もういい」亀井は貧乏揺すりを始めた。
 「い えいえ違います。もうちょっと聞いて」門土は妙に嬉しそうに説明を続ける。「いくら立派なコンピューター言語ができても、素人にとってまだまだ面倒なんで す。言語というのはいくつもあってですね、ベーシックというのは比較的簡単だけど複雑なことをさせるのには向いていないとか、フォートランというのは統計 処理にはめっぽう強いけど習熟するのが難しいんです。ま、どいつもこいつも一長一短がある。そんないくつもの言語を一括してまとめようという手段が必要に なって、オペレーティングシステム、略してOSが考えられたんです。つまりOSってのは、人間がコンピューターを扱うときの中央指令室のようなものなんで す。こいつのおかげで、機械的思考じゃなくて、人間的思考でコンピューターが扱えるようになったんです」
 亀井は、唇の端に付いたホイップクリームを親指でこそぎ落として指を舐めていた。眉間に苛立ちの縦じわがしっかりある。
  「ね、原理がわかると取っつきやすくなるでしょ」門土はコーヒーを一気飲みする。「車にたとえるとOSは運転席みたいなもんです。わざわざエンジンのとこ ろに行って回転数を調節したり、レンチ使って変則ギアを取っかえひっかえしなくても、アクセル踏んだりクラッチ操作したりするだけで済むんです。んで、 DOSちうのは比較的普及したOSの一つで、最初はちょっぴり取っつきにくいかもしれないけど、COPYとかDELとか全部で十ほどの命令さえ覚えとけ ば、ずいぶん応用がきくんです。それと、OSってのはひとつのプラットフォームだから、それに合ったさまざまなワープロや表計算、通信ソフトといった実用 ソフトやゲームソフトが次々次々次々次々次々次々と作られたんです」
 「さぁて、もう気は済んだかな」亀井は伝票を手に席を立とうとする。わけのわからんことばっかりヌカシおって。そんなことには興味はないのだという顔つきになっている。
 「えー、カメさん、なんも聞いてくれてないんですか」
 「たわけ。一〇〇パーセント理解しておるわ。ざっくりいうと、OSっつーのはお経だ」
 「…はぁ」門土の顔には一瞬失望の色が浮かぶ。
 「お前は出家修行者だから、お経も読めるんだろうけど、俺みたいな在家信者はそこまで覚えることはないんだ。だけど、その、それはありがたいことなんだ。そうだ、そういうことを知ってるだけでいいんだろーが」
  「うー、わかりました。んなら、お経にたとえましょ」門土は特濃コーヒーをお代わりする。「釈迦は悟りを開いたけど、それを人間の言葉で説明することがで きなかった。機械語だから。そんなもんだから、釈迦は弟子たちに二進法であれこれと説明したけど、弟子はバカだからコンピューター言語でそれを理解しよう とした。その言葉ならなんとか分かりそうな気がしたから。でもコンピューター言語ってのは出家して修行している弟子にしかわからん言葉で、無知蒙昧なカメ さんみたいな民百姓にはちと難しい。そこで、弟子たちがお経や念仏や仏教説話を作った。それがOS。これでどうです」
 「そろそろ仕事に戻らんとなあ」
 「ようするに、OSはお経全般のことで、DOSというのは特定の宗派のお経というふうにも考えられます。きょうからカメさんはDOS宗の門徒になったということですよ」
 「そーらみろ、やっぱOSはお経じゃないか」
 「ま、お経でもいいです。だけどカメさんだって、きっとお経を使うことができ」
 「みなまで言うな! DOSとOSの関係で俺の頭はいっぱいなんだ」
 亀井はスレイブを胸のポケットにしまったとき、さっき門土からコピーしてもらったデジタル辞書のことを思い出した。
 「おお、そうだ。きょうもらった辞書の代金だけど、ちゃんと払うからな」
 「いいですよ。ただであげます。公園のごみ箱で拾ったもんですから」
 やっぱり何を言っとるのかさっぱりわからん。デジタル辞書がなんで公園に落ちてるんだ。あー、わからん。さっぱりわからんぞ。ちくしょうめ。
 弐志部長とまではいかないが、そうした言葉をさらりと言われると、ムッカーとなる亀井であった。

========== ACT 2 に続く ==========

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