Act02

========== ACT 2 ==========

----- SCENE 1-----

 仕事帰り、亀井遠士郎は本屋に立ち寄った。パソコン関係の本でも買ってみようかと思ったのだ。
 住宅会社は田園地帯に広がる閑静な住宅地と謳っていたが、亀井が住んでいるのはそんなところではない。地図に墨をこぼしたように数戸ずつまとまった建て売りがぽつぽつと造られた、どこかしらうらぶれた土地である。
 だが、そんな土地でも、駅前にはいちおう小さな本屋が二軒あって、どっちの店にもパソコン雑誌はどっさり並べられていた。
 亀井は不思議な気持ちになった。こんな場末にもパソコンは流れ込んできているのだろうか。みな喜びいさんでマウスをクリクリやっとるのか。住所録を作って、年賀状と暑中見舞いを印刷しとるのか。ふろしき残業[*15]をしておるリーマンの姿だって想像できる。
  本屋で平積みになっている雑誌は、どれもこれも、広告だらけの分厚い雑誌ばかり。コンピューター会社が発売しているだけなら許そう。だが、新聞社までもが 似たり寄ったりの雑誌を次から次へと出している。なんたることだ。まるで類似品の競争じゃないか。まったくもって、どうかしとる。ブームを煽って儲けてお るのは、メーカーじゃなくて、マスコミじゃないのかね。
 ちょっと不愉快な気分になってレジに進んだ。
 「君ぃ。これの関係の本を探しておるんだけどな」スレイヴを見せた。
 「わおっ、マネドスじゃん」
 茶髪の若い店員はとつぶやくと、ちょっと嬉しそうな素振りで棚のほうに行った。
 「あ、ありました、ありました」
 茶髪から手渡されたのは『スレイヴを奴隷にする本』というソフトカバーの本だった。表紙にはマシンのイラストが可愛らしくデザインされていて、なかなかよろしい。
 「いま君、真似どす、とかなんとか言わなかったか。あ、その本いくらだ?」
 「それがどうかしましたか? 千二百円です」
 「一万円でいいかな、大きいのしかないんだ。で、なにが真似どすなんだ」
  「はい、おつり八千八百円です、お確かめください。あの京都のメーカー、昔は姉小路無線っていていたんですけど、最近CIでミニマル姉小路っていうブラン ドに統一したんですよ。で、ミニマル姉小路のDOSマシンだから、M-ANE-DOSなんです。はい、こちらレシート」
 「この栞もらうぞ。で、京都の会社だからドスなのか」
 「あはは。ディスク・オペレーション・システムの略ですよ。あ、こっちのカード型カレンダーもどうぞ」
 「むはは。それくらい知っとるわ。けど、DOSというのは古いお経なのか」
 「ウインドウズっちゃー98[*16]だ、NT5.0だ、CEだなんて言っているご時世に、風流ですよね」
 「んー? 時代遅れってことかね」
  茶髪はにやりと笑った。「たしかにマシンは何世代も前の遅いチップを積んでますけど、使われ方としちゃイカシてるもの。優秀ですよ、スレイヴ支えてる技術 陣は。青キー一発で実用ソフトを動かせるし、プルダウンメニューになってるし、使いやすいですしね。ほら、僕も持ってます」
 そして彼はエプロンのポケットの膨らみを指で示してみせるのであった。

----- SCENE 2 -----

 新築のポーチには温かそうな明かりがあった。
 住めば都とはよく言ったものだ。流れ流れてついに大阪の片田舎に新居を構えることになってしまったが、それも悪くない。妻も娘もすっかり関西弁で、自分ひとりが異邦人みたいな気分になることもあるが、やっぱり、わが家が一番だ。
 そんな思いで、玄関を開けたとたんに妙なにおいがした。
 「ただいま。なんだ、このにおいは」
 「おかえりなさい。冷めないうちに食事にしてくださいな」
 敦子が出迎えもせず、台所のほうで大声を出した。
 ったく… そんな独り言をもらしながら、重い足どりで食卓に向かうと、敦子から湯気のたつお椀を渡された。やたらネギがたくさん入った薄味のおつゆである。
 においの原因はこれだったのか。ったく… 敦子に聞こえないようにつぶやく。
 「うっ、不思議な香りだな、うっ」
 「平和ネギっていうの、これ。高知の主婦が有機農法で作ったのよ」
 おいしいとかまずいとかは問題外なのである。
 「うっ、味はふつうのネギみたいだが、うっ、においは、ちょっと」
 「なに言ってんの、体にいいのよ。あんたは外食で体に悪いものばっかり摂ってるから、ちょっとでも健康に気遣ってんの」
 この家を買う前は、娘と一緒に「風水」とかいうバカな占いに凝っていたというのに、いまじゃすっかりエコロジーとか自然食品にまっしぐら。夫婦の夜の会話にも、ここのところ、二酸化炭素削減や核燃料再処理問題といった言葉が紛れ込んでくるのには、うんざりしていた。
 「平和な気持ちになるわね」お椀に口をつける妻の眉間に、しわがあるのを亀井は見逃さなかった。頬の筋肉もかすかに痙攣している。
 「んぐ、こんなおいしいものを食べてると、んぐ、夫婦喧嘩もなくなりそうだな、んぐぐぐ」
 亀井はお椀の液体を一気に流し込むのだった。

----- SCENE 3 -----

 書斎はないが、ダイニングの横にあるソファセットが亀井の食後の居場所になっている。そこにあおむけに寝ころんで、買ってきたばかりの『スレイヴを奴隷にする本』をめくっていると、敦子がお茶を持ってきてくれた。
 「なんとか言ってやってよ、あんたからも、びしっと」
 「まだ九時前じゃないか。通学時間も延びたんだ。ま、そう言ってやるな。帰りがけに一杯ひっかけてくることもあるさ」
 亀井は『奴隷本』を読むのを中断されたくなかった。
 「なに言ぅてんの、ヒロミまだ高校一年よ」
 「そそ、そうか。でも、まあ、たまにはいいじゃないか」
 亀井は『奴隷本』に集中し始めていた。本の著者は「チーム・マネドス[*17]」となっていた。グループで書いた本である。最初に、わたしたちはハッカー[*18]です、と書いてある。
 なに? 犯罪者集団か。
 心臓がきゅんと締めつけられる。
 「あんた、聞いてんの?」敦子が本をもぎ取ろうとする。
 亀井は応戦したが、抵抗すればするほど本がヨレヨレになる。
 「わわわかったわかった。今晩という今晩は、ヒロミの奴、とっちめてやる。安心しなさい。おお、ほんとだとも」亀井はようやく本を奪い返すと、敦子はぶつぶつ言いながら台所に戻って洗い物を始めた。
  読み進むうちに、ハッカー集団「チーム・マネドス」というのは、プロのコンピューター技術者や学者や学生、サラリーマンの集団で総勢五百人いるというのが わかった。そして姉小路社というのは、三年ほど前からパソコン事業に参入したが、それまでの主たる業務は盗聴グッズの製造販売だったという。
 ページをめくっていくと、新聞記事が転載されていた。日計産業新聞ではない。それは読瓜新聞の社会面で、姉小路社がMS-DOSを違法コピー[*19]して配布した疑いで捜索を受けたという事件記事だ。
 これに激怒した社長が、「来たれハッカー! MS-DOS互換OS[*20]開発しまひょ」という広告をあちこちに出した。そこへマラクロソフト[*21]のやり方に疑問を抱いていた腕っこきたちが、覆面ボランティアとして参加して、マネドスができたのだという。
 中身をすっ飛ばして、最後のページをめくったが、あとがきはなく、その代わりに姉小路社の社長の短い謝辞が載っていた。

 スレイヴの使い心地はどないですやろ。マネドス、「アネキの筆箱」「ねえやの糸電話」「融通ネエちゃん」……等々、すべてチームのみなさんが作ったフリーソフト[*22]どす。大勢でコピーして使ぅとくなはれ。手前どもは、スレイヴでは金儲けいたしまへん。
 スレイヴは、姉小路に嫌がらせをした京都府警はんと、権力の腰巾着になったマスコミはん、それから、傲慢で横暴なパソコン業界への、ほんのささやかな復讐どす。

 と、そこへヒロミが、ただいまとも言わずに帰ってきた。
 「ヒロりん? ヒロりんかい?」亀井は思わず本を閉じて顔を上げた。
 「もー、気持ち悪い言い方せんといて」
 制服姿の娘はダイニングを通り過ぎ、階段の上がり口へ向かおうとして振り向く。
 ちょっぴりふてくされてる顔が、敦子から産まれたとは思えないくらい可愛い。女の子はこうでなくちゃ。つややかな髪、ぱちくりした瞳。足はムッチリして、アムラーにはなれそうにもないが、外見からして、非行に走っている心配はあるまい。ヒロミに限って。
 そんな根拠のない自信が亀井にはあった。
 「待て、ヒロミ。帰りが遅いじゃないか」亀井はいったん声を荒げたものの「……ってママが心配してたんだよ」
 「お部屋行っていい? 宿題あるの」
 「どぞ、どぞ。お勉強がんばってね」
 なんていうところへ台所の敦子の怒声が割り込んできた。
 「ヒロミ! ちょっとこっちへ来なさい。どこで何してたのか、ママのまえで言ってごらんなさい」
 「文化祭の準備に決まってるやん」
 「そーだ、そーだ、パパは覚えているぞ。ヒロりんのクラスは演劇をやるんだよね。で、ヒロりんはヒロイン、なんちゃって。ささ、ここはパパが死守するから、早く二階に逃げなさい」
 亀井は拳固で軽く胸を叩いてみせる。ヒロミはウインクひとつすると、スカートをひるがえして階段を駆け上がる。
 「アンタが甘やかしてばっかりやから、ヒロミが増長するのよ!」
 「いいじゃないか。だいたいお前はうるさすぎるんだ」
 「あたしら、親よ。親なら親らしく、娘なら娘らしく。節度ってもんがあるでしょーが」
 「おお、父親失格でも構わんね。構うもんか。親だから、って枠でしか娘と話できないなんて、ヤなこった、パンナコッタ、肩コッタだわ」
 亀井が本に戻ろうとしたとき、敦子の眉間に怒りのアイコンが現れていた。
 「あんたちう人は…」
  だが、亀井はすでに学習している。しょせん母と娘は最後に結託するということを。この四千五百万円の一戸建てを建てたときもそうだった。この物件に決めた のは亀井ではない。敦子とヒロミの明かな陰謀だった。ヒロミの受験が終わってからというもの、敦子は土日のたびにヒロミを連れて一緒に大阪じゅうの不動産 屋をまわっていた。ああでもない、こうでもない、と図面をバインダーに綴じ込んで、一戸建ての作戦を練っていたのだ。一家の大黒柱をないがしろにして、そ れが母親としてまっとうなあり方だとでもいうのか。
 「ほんまに、あんたちう人は…」
 そもそもこんな辺鄙なところに家を買ったのは、風水占いのせいだ。方角がどうの、時期がどうの、水まわりがどうの。母と娘のやりたい放題だったのだ。
 「ほんまのほんま、あんた、っちう人は…」
 二階にはヒロミの部屋の隣にもう一つ部屋がある。亀井が自分の書斎にしたかったのに、風水の脅しで、その部屋は母と娘の衣装部屋に決まった。風水の占いがこの家で下火になったいま、十六歳の娘は二階部分の約四十八平方メートルを完全に占拠してしまったのだ。
 「あんたは、クズや。ヒロミのことも、あたしのことも、なんとも思ってないんやろ。家族よりも自分。ほんま、つまらん男」
 「おお、言ってくれるじゃないか。お前は風水の魔法で娘を不良から守りなさい。平和ネギもあるし家庭も円満だ。これ以上なにを望む」
 亀井は再び本を取り上げて読もうとして、ふと顔を上げた。
 敦子の目には涙と憎悪が浮かんでいた。気まずい沈黙が続く。二階からはヒロミがかけているCDの音が響いてくる。犬の遠吠えが聞こえてきた。柱時計がチクチクいう音がする。そして亀井は自分の心臓の響きを感じた。
 敦子が一歩も動かずに亀井を睨み続けているのが視界に入る。
 まいったな。
 亀井は観念した。
 「や、や、すまん。ヒロミには、日をあらためて厳しく言うよ。言い過ぎた。悪かった」
 亀井は本をソファに投げ出して、すっくと立ち上がり敦子を抱きしめた。「愛してるよハニー」
 「な、な、なにすんのよ、やめてよ」汚いものでも扱うように、敦子は亀井の腕を振り払い、風呂場に行くといってダイニングを出た。背中を見つめていると怒りがこみ上げてくるが、ようやく一人になれたんだ、と亀井は自分を慰めることにした。
 スレイヴを取り上げた。画面には、まだあの一行しかない。

 --とくにジャンルはない。
 さて、これからだ。

----- SCENE 4 -----

 スレイヴを買ったときにマニュアルがなかったのが不思議だった。一枚の保証書とぺらんとした取扱説明書が あったきりで、なんとも心許なかった記憶がある。その取扱説明書にしたって、「わからないことがあったらキーボードのヘルプキーを押せばだいたいのことは わかります。それでもダメなら『スレイヴを奴隷にする本』を買ってください」と書かれていただけだったのだ。
 キーボードの上に青キーが並んでい て、その一番左には、鉛筆の絵柄がある。スレイブを買って間もなく、それを押してみたら、この「アネキの筆箱」の画面になった。ヘルプキーを押して説明を 読んでいくうちに、それが日本語を入力するためのソフトであることも理解できた。それからいくどかの試行錯誤によって、どうにかこうにか日本語の文章を書 けるようになった。
 最初は、とんだ買い物をしてしまったと後悔したものの、気楽にあれこれ試していれば、どうにかこうにか使いこなせるのだという自信もついてきた。
 奴隷本には、アネキの筆箱の使い方が丁寧に書かれていた。
 アネキの筆箱というのはエディターだった。
 ワープロじゃないことを知ったときには、騙されたと思った。
 エディターというのは、もともとプログラムを書くための小道具で、印刷の機能もないし漢字やひらがなを倍角にしたり半角にすることもできない。グラフや写真を貼り付けるなどという複雑な機能もない。
  だが、エディターにも利点はある。奴隷本は「早さと軽さ」を強調していた。たとえば一女郎やワーズといった市販の横綱級のワープロソフトの場合、文字が入 力できるようになるまでに一分ほど待たされる。ちょっとした思いつきをメモするときには苛立たしいったらありゃしない。その上あれやこれやといろんな機能 が付いているため、そのぶん動きもにぶく、使い方を習熟するのに時間がかかる。
 ワープロソフトが重戦車だとすれば、エディターは自転車のようなもので、横町のタバコ屋に行く程度の用事なら、自転車のほうが便利に決まっている。プログラミングをしない人にもエディターは有用だということを奴隷本は強調していた。
 俺は、とてつもなく特殊なパソコンを買ってしまったのかな。
 奴隷本がいくら理詰めで説明していても、亀井は一女郎やワーズのような立派なソフトを使ってみたいし、ちゃっちい青キーを押すよりも、やはりマウスをクリクリやってみたいと思うのであった。

----- SCENE 5 -----

 「…パパ…パパ…」
 ヒロミの声である。顔の上から本をどけると、ヒロミの顔が現れた。
 「風邪ひくわよ。ママ、地球環境を守るために、すぐにエアコン切るんやもん」
 「おお、そうだったな。すまんが、お茶、熱いお茶をくれないか。のどが痛い」ゆっくり起きあがり、ててててっ、と言いながら首を回す。
 ヒロミはお茶を運んでくると、父の足下にひざまづいた。
 「ねえ、パパ、お願いがあるの」
 「そらきた。父さんに援助交際してくれって言うんじゃないだろうな」
 「違うわよ。ポケベル買ってほしいの」
 「いくらパパが甘いからって、そりゃちょっとなぁ。よしママに相談してみよう」
 「あかんよ。ぜったいにあかん。ママがOKするはずないやんかー」
 「それもそうだ。で、ママは?」
 「いま、お風呂」
 「じゃ、ママが風呂から出てきたら二人で頭下げましょう。それがだめならパパと駆け落ちしましょう。それでもだめならあきらめましょう」
 「茶化さないで!」
 ヒロミは頬をふくらませる。
 「買える、買えない、買える、買えない。鼻占いでもしますか? 鼻毛を一本ずつ抜いていく占いなんだけど」
 ヒロミの目にはうっすら涙が浮かんでいる。そして、しばしの沈黙。
 よし、わかった、わかった、買ってやろうというと、ヒロミの顔はみるみる笑顔になり、やったー、っと飛び上がる。そんな娘を見るとき、たまらなく幸せになるが、同時に敦子の憤怒の表情も脳裏をよぎる。
 「これだけは、パパから言っておくけど」亀井はすこし薄くなり始めた髪をかき上げてヒロミの目を見つめた。久しぶりの真顔の父に、ヒロミもちょっと緊張している。
 「ベルで見つけた男と交際するのはお前の自由だ。大いにやればいい。パパやママに明かせない悩みや夢もあるだろう。それを友だちと分かち合うのもよかろう。こんな娘に甘いパパだけど、パパの願いはただ一つ。お前が自分を大切にしてくれることだ」
 ヒロミは、パパだーい好き、といって小踊りしてみせた。それを見ながら亀井は、ヒロミもこうして男に媚びる術を学んでいるのかなと思うと、ちょっと寂しい気もした。少しずつ女になっていく。それはそれで仕方のないことだ。それが成長というものなんだ。
 敦子はいつも口をすっぱくしてヒロミに自立できる女になれと吹き込んでいるが、ヒロミが自分で選ぼうとしている人生を、敦子の希望で勝手にねじまげるのはどうしたものか。息苦しい世界だからこそ、できるだけのびのびと生きてもらいたい。したたかにやるのも悪くはない。
 「ヒロミっ! お風呂に入りなさい」
 胴にバスタオルを巻いたままの姿で敦子がダイニングにやってきた。
 「始まったから」ヒロミは二階に逃げた。
 じゃ、あなた、と亀井が命じられた。「ささ、早く早く早く早く早く早く」
  敦子の言葉に追い立てられるように、亀井は駆け足のポーズでふろ場に向う。しばしの別れじゃ、とスレイヴと奴隷本をちらと見て、ズボンを脱いだ。家族が続 けて入ればガス代も節約できて、地球にも優しいという敦子の考えは、いつからか、この家で神聖ニシテ侵スヘカラス[*23]となっていた。

----- SCENE 6 -----

 風呂から上がると、ネグリジェ姿の敦子が食卓で夕刊を読んでいた。
 「ねえ、あなた。ジェリィ平賀って、あなたと同じ大学出てるのね。それに、あなたと同い年よ。知ってらした?」
 亀井の表情がみるみる歪んでいく。
 「ねえったら」敦子は新聞に目を落としたまま返事を促した。
 しばらく気まずい沈黙があり、やがて敦子が顔をあげて亀井のほうを見た。
 「ああ、聞いてるとも。昔から、いやーなヤツだったよ」
 「毎田新聞の社会部記者、日計トレンディ編集者、経堂通信で経済記者…って書かれてるわよ」敦子が新聞記事を指さす。
 「そ。そういうやつさ。要領だけで生きてるんだ。世間をナメるにもほどがある」
 「タレントと思ってたら、文学賞なんかも受賞してんのね、すごいじゃない」
 「あーいうのを口舌の徒というんだ。けっ、なにがジェリィ平賀だ。知ってるか、あいつの本名を。君島助松っていうんだぞ」
 「ス・ケ・マ・ツですって」
  「そーとも。学生時代からテレビ局でバイトして、そのコネで系列の新聞社にいれてもらったんだよ。あんな軟弱に記者稼業が務まるもんか、ってゼミのみんな で言ってたんだ。で、案の定、いまじゃ立派なマスコミ芸者だ。ジャーナリストとはほど遠いじゃないか」目がつり上がっている。
 「そんな悪口ばっかり。ジェリィ平賀っていえば、立派な有名人よ。それに比べて、あんたはどう? ただの無名なサラリーマンじゃないの」敦子も目をつり上げた。
 なに言うか、バカ女め、と一喝したかったが、どう考えても八つ当たりにしかならないことは明らかだった。たしかに平賀には社会的な影響力がある。平賀に俺の書斎計画を邪魔できても、今のところ、俺はあいつ生活になんの悪影響を及ぼすこともできん。
 「こんど読んでみようかしら、ジェリィ平賀の本。環境問題とかフェミニズムとかにも明るい知的な評論家って紹介されてるもんねー」
 そういって敦子が亀井に放り投げてよこした新聞には、芸能リポーター須藤甚十郎にウリふたつのノッペリした面があった。
 亀井は一気にいやーな気持ちになった。
 ようするにコイツは時代の表層部分の上澄みをすくい取ってるだけの寄生虫じゃないか。堅気の勤め人の苦労も知らないで、目立つところを飛び回っているだけの銀バエだ。
 「そういえば、こいつ、ウォーム真理教事件[*24]のときも、テレビではしゃぎまわってたな。許さん、許さん、とかなんとか言って、江川証子や有田吉生のケツにくっついて。たしかあの頃は、カルトウォッチャーっていう肩書きだったよな」
 「いいのよ。ウォーム批判してたんだから」
 「…そうかな…、それはちょっと…」
  亀井はかつてのウォーム事件を薄気味悪く感じていた。教祖や信者だけが薄気味悪いのではない。初めからウォームを「悪」と決めてかかって、みんなで寄って たかって叩く風潮が、どことなく弱い者イジメのように映ったのも事実である。事件の被害者には申しわけないが、大阪の場末に住んでいる亀井にとって、 ウォーム騒動は痛くも痒くもない事件だった。テレビに吸い寄せられた記憶といえば、教団内部のセックスの話題とか、例の空中浮遊とかいう修行のことくらい しかない。
 そこへ君島助松ことジェリィ平賀が「許さんぞー」「地獄へ堕ちろー」なんて怒っているのが滑稽だった。
 目を閉じると、平賀のいやな記憶が蘇ってくる。
 そして、その瞬間、亀井の胸には、それとは別の胸くその悪さがこみ上げ、腕が震えそうになった。
 また、あの記憶が…
  思わず口ごもり、目を伏せる。それは、サラリーマンになって以来、なんの前触れもなくやってくる妄想にも似た不思議なビジョンだった。幼い日に感じた、大 きな暴虐とでも言えばいいだろうか。べらぼうな力に翻弄されたような--。それがどんなことなのかよく思い出せない。ただ、砂場にぶっつけられた金魚のよ うに口をパクつかせるような、どこかひりつく手触りだけが、残っている。哀絶とかいう言葉で表すことになるのだろうか。おぞましい何かに打ちのめされ、俺 はすっかり無力でいたのだ。
 震えはじきに収まった。
 いったい、あれは、なんなのだ。いつもあと少しで、すべてがパッと思い出せそうな気がするのだが。
 「ところで、ポケベルなんだけど」亀井は天井を見上げて言った。目を逸らすためだ。「ヒロミに買ってやろうと思うんだけどね」
 「あかん」
 「ほら、きょうみたいに遅くなるときに、こっちから呼び出せるぞ」
 「あかん」
 それだけだった。絶対者の断固たる態度である。二の句が継げない。
 「だからさ」
 「あかん」
 「いや違うんだよ、ヒロミはさ」
 「あかん」
 「なにも、その」
 「ひっつこいなー、あかん、いうたら、あかんの!」
 はらわたが煮えくり返る思いで亀井はソファに戻って寝ころぶと、『奴隷本』を手にとってページをめくり始めた。
 「もう、おもちゃ買ってもらった子供みたい。先に寝るわ」敦子はダイニングから亀井を一瞥して新聞を折り畳み、寝室に消えた。
 壁の時計がひっきりなしにたてているチクチクという小さな音が心なしか大きくなった。台所の蛇口からは三分に一回ほど雫の音がぽちゃりと鳴るが、それを閉めようなどとは思わなかった。
 チクチク、ポチャリ、チクチク、ポチャリ。深夜まで亀井はそんなBGMを聞きながら『奴隷本』に没頭するのだった。
 アネキの筆箱のボタンを押すと、まだあの一行しかない。
 --とくにジャンルはない。

 このスレイヴで平賀をギャフンと言わせるものを書けるようになるまで、あとどれくらいかかるんだろうか。

========== ACT 3 に続く ==========

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