Act07

========== ACT 7 ==========

----- SCENE 1 -----

 「夫婦の会話ってものもあるでしょう」
 夕食の後かたづけを済ませた敦子が口を開いた。
 ソファに身を沈めていた亀井は、敦子の方を振り返った。
 「いくら話しかけても、あとで、あとで。ずーっとその電卓と遊んでばっかり」
 「電卓なんかじゃないさ。これでも立派なコンピューターなんだぞ」
 「そんなの、どっちでもええわ」敦子は舌打ちした。「私に黙ってヒロミにはポケベルなんて買い与えるわ、私とは口もきかんわ。私、あんたにひどい仕打ちでもしたかしらねえ!」
 亀井はとっさにスレイヴからモジュラージャックを抜き、電源を切った。妻の声に苛立ちが沸騰し始めたのを悟ったのだ。
 「や、や、すまん。どうしても集計しておかなければならん伝票があってな。またまた決算が近づいてきたんだ。中間管理職はふろしき残業もやむなしだよ」
 「さっきはえらくニヤニヤしてたわ。さぞかし楽しい残業なんやろね」
 「ほんとだとも。ほんとのほんと。ほとんどほんと。成績がすこぶるいいんだ。お前も知ってるだろ、あの弐志さん」亀井はソファから立ち上がると、食卓にやってきて敦子の向かいに座った。
 「部長におなりになった、あの厚かましい人?」
 「そそ。弐志さんが課長だったときと比べると、営業二課の営業利益、五パーセントも増えたんだ。ニタニタもしたくなるってもんさ」
 亀井は妻の湯飲みを奪って冷めたお茶をすすった。
 「それより、あんた、あした出張なんでしょ。また東京に」
 「うむ、そうだ。まったくバカみたいだな、全国課長会議だなんて。毎月、系列会社の課長全員を一堂に集めて洗脳するだけなんだから」
 「そんな会議のために一泊もするなんて、ますます夫婦の会話はなくなるわ」
 「まったくだ」
 そういって自分でうなづきながら、亀井は敦子の怒りの矛先が自分ではなく、会社に向かったことにほっとした。会社の悪口を言ってなんでもかんでも責任転嫁していればいい。それで家庭がうまくいくということは、弐志に教えてもらった。
  敦子は、最近ヒロミに変な男からときおり電話がかかるようになったと口をとがらせた。それはボーイフレンドというやつで、年頃のオスとメスが交尾にそなえ て、異性と接触する習性なんだと言おうとして思わず言葉を飲み込んだ。敦子は、そういう言い方をすると、からなず激怒するのだ。
 娘の教育方針については、これまで敦子とはいく度となく話し合いを重ねてきた。いつも亀井は自由放任の立場になりがちで、敦子のほうはどうも管理主義的だった。そんな二項対立の議論はつねに平行線で、きまって最後は
 --あなたは女性経験が乏しいからそんなこと言えるのよ。
 --お前こそ男を知らんからな。
 という陳腐なところを堂々めぐりするのだった。
 「ヒロミは可愛いからなぁ。モテるっていうのは、あれだ。その、むしろ喜ばしいぞ」
 「なに暢気なことを。近ごろの子供ときたら」敦子はそう言って一冊の単行本を食卓に置いた。
 表紙を見た途端、亀井の顔は苦虫をかみつぶしたように歪んだ。営業マンとして長年鍛えた笑顔用の筋肉が萎えそうになる。
 「お前、またしても、あんな奴の本なんか」
 眉間に縦じわが寄る。不快感が沸き上がる。亀井は頬を赤らめてそういうと、敦子がジェリィ平賀が書いた『シンデレラの携帯電話』という本を押し戻した。
 「もちろんこれは小説よ。でも、ありそうな話だわ」
 何をいうか。そんなのは、どうせ無軌道なガキどもを主人公にした甘ったれた読み物だろう。読む必要のない本だ。亀井は瞬時にそう判断した。冷めたお茶をすすり、爪楊枝で歯にはさまった平和ネギをほじくる。
 「ちょっと時代に目ざといだけだよ。あいつ、ポケベルを小道具にしたお話だって書いてるだろ。そいで、今回はケータイだ。読まなくったってわかるさ、あいつの書くものなんて」
 「そんなことないわ。平賀さんは元新聞記者よ。きちんと取材して書いてあるって、解説にも書いてあったし」
 黙れ、バカ女め--そう言いかけて、亀井は湧き出てくる非難をやっとのことで飲み込んだ。奴を酷評するたびに、それはひがみだ、そねみだ、と逆にやりこめられるのがオチだからだ。
  いまをときめくマルチタレント・ジェリィ平賀こと君島助松は、自立して稼いでいる。それに比べて、俺は中小企業の、たかだか課長になったばかりの平凡なオ ヤジだ。奴がサーキットで注目を浴びるレーシングカーなら、俺は毎日決められたレールの上をちんたら走る退屈な路面電車。そんなふうに敦子は考えている。 俺を尊敬しろとは言わないが、それではあんまりじゃないか。
 「わかった。その面白そうな本、出張の新幹線の中で読んでみるとするか。それにして もお前、主婦ってのは、あれだ、その、料理とおしゃれとセックスの回数と、芸能人にダイエット、それから、半径五十センチ以内のことしか考えないもんだ ぞ。もうちょっと主婦らしくできないか」
 「なによ、だいたいあんたは女をバカにしてんのよ」
 「賢い女もいるさ。だがお前は違う。風水が終わったと思ったら次は平和ネギだ。ちょっとしたことにすぐ影響されて、振り回されてばかりじゃないか」
 「それもこれも家族のこと考えてのことやないの。あんたこそ勝手やわ。ヒロミの躾ひとつできないで」
 「わわかった、わかった。俺が悪い。悪いのは俺なんだ。俺みたいなつまらん人間を罵っても時間の無駄だぞ。もう寝よう。な、寝よう。寝てくれ」
 亀井は君島の本を玄関先のボストンバッグのポケットのところに突っ込むと、敦子を一秒ほど抱きしめてから、寝室にドンと突きとばした。
 君島の本など読む気はない。くだらんファッションやドラッグやらにハマったガキどもの宝探しや冒険譚が、なんでそんなにありがたいのだ。
  小市民、大いにけっこう。やましいことなんてあるもんか。どっこい俺たちはまっとうに生きている普通の男なんだ。仕事上の悩みもあれば、社内の人間関係 だって難儀なもんだ。人に言えない重荷にも耐えている。そうさ、人生でもがき苦しんでいるのは、なにも君島が取り上げるような、はみ出し者だけじゃないっ てことだ。
 だいたい、君島が書いたものを評価する輩なんて、どうせみんな社会人の経験がない口舌の徒に決まっとる。堅気で過ごすってことの大変さが、奴らにはわかっとらんのだ。
 亀井は深呼吸をひとつすると、ダイニングの電気を消して、寝室に入った。敦子のいるベッドの中に身をすべり込ませて、目を閉じる。敦子はこちらに尻を向けて、早くもいびきをかいてやがる。
 亀井は妻のいびきに息を合わせて眠ろうとするが、閉じた瞳の中には、なんだか君島のいやらしい顔がちらついて仕方がない。それはますますもって鮮明に浮き上がる。今夜は、やつがウォーム教団を「許さないぞ」とがなっている顔が出てきた。
 ちっくしょー。
 俺がスレイヴで書こうとしているのは、リアルなものだ。根元的で、本質的で、普遍的なものだ。それは怒りを含んでいる。あるいは憤りを。そして、そこには真実がある。
 だが、どんなふうに書いていいものやら…。
 近ごろ亀井は、まどろみながら悩み続ける癖がついてしまった。ああでもない、こうでもないと考えてはみるのだが、いくら頑張っても閃きもなにも出てこず、堂々めぐりの末に、気がつくと、少年の日の、どこか切ない光景を見ているのだった。

 あれはいったいいつだったのか。
 寒い日だったような気もする。両手をふさがれている。夕陽なのか 朝日なのか。少年亀井の向こうに、だらしない陽の光がある。なにかたいせつなものを見つけたのに、一瞬にして失くしたような…。いや、そんな生やさしいも んじゃない。少年の中には、無慈悲な激しさで叩きのめされたような、後味の悪さというか、居心地の悪さみたいなものが、残っているのだ。
 あと一歩、あと一歩のところまできているのに、それがどんなことなのか、よく思い出せない。いったい俺は…。

 「あんた、ええかげんにしてよ。さっきから、ぶつぶつぶつぶつっ!」

 「ふう」亀井はまどろみから覚めた。「いや、なんでもないさ。なんでもないんだ。それにしても、また独り言とはな」
  ふと、きょうの昼休みに見た書類が気にかかる。それは健康管理部にいる元看護婦のバアさんから渡された茶封筒に入っていた。封筒は人間ドックから送られて きたもので、封を開けるとコンピューターで印刷された診断結果が入っていた。循環器系、呼吸器系、消化器系のすべてに「異常なし」と書かれていたが、ある 紙切れが添付されていた。それは、うつ病[*42]チェックの診断表で、「うつの疑いがあり、一度カウンセリングにお越しください」と書かれていたのだっ た。

----- SCENE 2 -----

 朝。亀井が味噌汁を飲んでいるところへ、ヒロミが二階から降りてきた。パジャマのままである。まだ髪もとかしていない。
 「いいな、パパ、東京に行けて」
 「ヒロミも行きたいかい? なら父さんの会社に就職して、課長になればいい。だけど、東京行けるころにはヒロミも四十歳のオバハンだけどな」
 「お土産のことなんだけどぉ」ヒロミはお願いモードになった。
 「だめだめ。パパは仕事」すかさず敦子が割って入る。「あんた、早くしないと新幹線に遅れるわよ」
 お椀を奪われた亀井の左手には、生ゴミの袋が渡された。そして、あれよあれよと言う間に玄関に追い立てられる。
 「気をつけてね」
 敦子とヒロミのハモった声を背中で聞きながら、気がつくと、亀井は家を出ていた。

----- SCENE 3 -----

 三十分後、新大阪駅のホームで門土と落ち合った。
 門土は、システム保守課長のピンチヒッターで急 きょ、全国課長会議に出席することになっていた。それだけではない。網タイツの掲示板にいく度か掲載されていた謎めいたミーティングに参加するという計画 もあった。門土は、カメさんと一緒なら心強いと言っていた。それは亀井も同じであった。
 「あれぇっ、ジェリィ平賀やないっすか。カメさんそんなの読んでるんや」門土が亀井ボストンバッグのポケットに刺さった本を指さす。
 「いいや、家内から読めって言われてな。読むんなら、貸してやるぞ」
 「いいです。ボクだって、ああいう奴にはムカついてるんですもん。コンピューターのことなんにも知らないで」
 そういって門土は、平賀がかつて書いたというパソコン通信小説をクソミソにけなし始めた。
 「そーなんっす。よーするに、平賀、パソコンのことなーんも知らんのですわ。いいっすよ、自分でキーボードに触れなくても、立花隆[*43]みたいに理解力があったら。でも、平賀の『ディスプレーに墜ちた天使』って小説、あんなの、よく書けたなぁ」
 門土のそんな熱弁に亀井は大きくうなづいてみせた。君島への罵りを聞くと、なんだか嬉しくなってくる。
 「そんなことより、カメさん、通信にはまってるんですってね」
 「おお。なんだか面白くなってきてなあ。実はゆうべも遅くまで網タイツにつないで、電子掲示板を読んでたんだ。家内にばれそうになって、伝票の集計だとかなんとかいって、ごまかしたんだけど」
 「変な書き込みも多いでしょ」
 「うむ。ひと儲けしませんか、っていうネズミ講まがいの広告とか、エッチな画像を販売するから口座に一万円振り込めとか」
 亀井はスレイヴを取り出して、通信記録を紐解いた。テキスト形式で、アネキの筆箱で読むことができる。
 そんな亀井の進歩を門土は嬉しそうな目で見つめた。
 「おお、これなんか、そうとう変だぞ」
 亀井はスレイヴを門土に見せた。

タイトル謀略電波に注意せよ!
teikyu@ami.net,・低級霊・ 検索キーUFO

ときに金星人はビシビシ瞑想する
せつないシベリア鉄道の夜
そいつはゴールデンハーフのエバちゃんなのか
やりきれないエッチのまずいテクニック
大工の歴史は爆発するかも知れないゼ
ころがるジャパン…
走る、走る 電波がUFOから走ってくる
ボクの脳ミソは巨大なアンテナだ
ボクの脳ミソは電波をシッカリ受けとめる
殺せ、殺せ、と電波は命じる
逃げる、逃げる、しかし…
ボクは一〇〇万人の馬場から一六文キックを浴びる
謀略は一条直也の二段投げで力士にげらげら命中した!
あわわわわわわわあわわわわわわわわわわわ
まずい子猫はたまったものじゃないんだから
たくましく空飛ぶ裁判官
燃えるせつない来たるべきとき!
ルネ・ヴァンダール・ワタナベが電話を吐いた
それではごきげんよう
end..

 「アブナイなぁー。こういうの、いるんですよね、けっこう」
 「だよなあ」
 軽くうなづきながら、亀井はだれもが自由に発言できるネットにも、君島たちとは違う意味での厄介者がいることを実感した。
 亀井はビール缶に手を伸ばした。門土もサンドイッチをぱくつき、ビールで流し込んでいる。
 「ところで何か会議室には入ったのですか」
 「うむ。最初に入ったのはティーンズ恋愛会議室だ」
 「キケンだなあ」
 「いやいや、うちの娘くらいの若者がどんなことを考えておるのか、と思ってな」
 そんな他愛のない雑談をしているうちに、話題は亀井が執筆している話に及んだ。
 「例の、ジャンルはない、っていう、アレ、進んでるんですか」
 「いや…。正直いうと、あんまりな」
  君島をアッと言わせるようなものを書こうという思いが募るだけで、なにをどう書いていいのか、正直いって五里霧中なのだ。無理もない。サラリーマン川柳や 社内標語くらいしか書いたことのない一介のリーマンが、いきなり小説を凌駕するジャンルを打ち立てることなど、できるはずがない。
 「なんちゅうか、俺が気にいらんのはだ。ジェリィ平賀みたいな奴の意見が、マスコミ通じて伝染病みたいに広がってだ、それが妻や娘の脳ミソを染めていくわな。その一方でだよ、まっとうに働いてる俺が、まったく相手にされていないというのが……不条理だよなあ」
 なんだか単に威厳のないオヤジの愚痴みたいだなあ。亀井は自分の表現力のなさが歯痒い。
 「世のできごとの薄皮部分を小器用にかすめ取って生きてる平賀たちを、ドキっとさせるような、まっとうな文章を書いてみようというのが原点なんだが。さて、どんなものを書いていいものやら」
 「それにしてもカメさん、ジェリィ平賀のこと、相当嫌ってますね」
 「ああ、本名君島助松。あいつは大学時代の同級だ」
 「なーんだ、それでマシンのニックネームを助松ゴロシにしたんですか」門土は小さく吹き出した。「でも、カメさんのその気持ち、なんかわかるような気ぃしますよ」
 そういって門土がしゃべり始めたのは、またしてもお得意のパソコン業界批判だった。
  パソコンをめぐる情報というのは、まったくもってメーカーが主導権を握り続けていて、パソコン雑誌だけならまだしも、一般の雑誌も新聞も巻き込んでの大 ブーム。ユーザーは奴隷のごとく扱われている。そんな門土の主張はいまに始まったものではなく、仕事帰りの飯屋や酒場でいく度となく聞かされてきたもの だ。
 新幹線は京都を過ぎ、まもなく名古屋に到着しようとしている。亀井と門土の前のテーブルには、空のビール缶が四本ほど転がっていた。
 「けど、なんだなぁ」亀井はゲップを吐いた。「ここで愚痴ってるだけじゃ、お互い、負け犬の遠吠えだよなぁ。しょせん俺たち、ヒック、どうせ、世間に埋もれたまんまの、小市民だもんな」
 「カメさんの口から、そんな敗北宣言ききたかないなあ、ぼかー」
 門土はいつしかいびきを立てていた。門土が熟睡する横で、亀井はスレイヴのスイッチを入れる。
 そして例のメールを画面に出し、内容をもう一度目で追った。

題 名参加させてください
受取人fukusha@ami.net,・福洒応恵・
発信者kame@ami.net,・亀井遠士郎・

福洒応恵様
電子掲示板で「コピー研究会」の案内を拝見して、たいそう興味を覚えました。
小生、大阪在住のリーマンで、コンピューターにはあまり強くありませんが、今週の金曜日に、たまたま東京に出張します。一度、その勉強会に参加させていただければと思います。
亀井遠士郎/kame@ami.net
end..

題 名お待ちしています
発信者fukusha@ami.net・福洒応恵・
受取人kame@ami.net・亀井遠士郎・
亀井様
金曜よる7時、待ち合わせ場所は、渋谷の三千里薬局の前でいかがでしょうか。
電脳回廊では亀井様のように礼儀を重んじておられる方はあまり多くありません。ビジネスエチケットを知る会社勤めの方の参加は刺激になります。みんな楽しみにお待ち申し上げております。
福洒応恵/fukusha@ami.net

追伸 こうした電子メールも我々はコピーと考えます。つまり、私が自分のマシンで書いた文章をミニマル姉小路 社のホストコンピューターにコピーし、それを亀井様が自分のマシンにコピーしたのです。なぜ手紙ではなくコピーなのか。それは、この文章が私の手元のマシ ンにも、姉小路のホストにも残っているからです。つまり、電子メールは本来的には手紙ではなくコピーなのです。
end..

 何度読み直しても、福洒という人物の考えるコピーに関する考察は刺激的だった。
 「あらゆる生物はコピーの道具である。人間はよくコピーする動物である」
 そんな断定口調の書き込みを網タイツの会議室で見かけたときは、変な人がいるものだなと思った。だが、いくども、福洒と名乗る男の書き込みと、勉強会の案内を見ているうちに、ふと心の中に、なんとなく引っかかるものが芽生えた。
 ほんとに俺たちはコピーするために生きているのだろうか。
 そんな考えが徐々に頭を占拠するようになり、増殖し、やがて抑えきれなくなった。
 それは、あらゆることに当てはまるような気がした。スレイヴについても言えそうだ。敦子やヒロミについても、そして君島についても。歴史、経済、文化、あらゆる分野について、一刀両断で斬れる名刀のような、そんな予感がした。
 なにかがありそうだ。新しいなにかを書こうとしている自分にとって、それは必要なことのような気がする。
 列車はまもなく浜松である。
  亀井は酔いさましのジュースを買って一気に飲み干すと、スレイヴのキーボードに指を乗せた。そして、思いつくまま文章を綴り始めた。ジェリィ平賀こと君島 助松のような輩の言葉がいかに無責任であるか。そして、今夜、門土と例の勉強会に足を踏み入れようと思った理由。そんなことを一気呵成に書き出し始めた。
  思いを綴るというのは、自分の分身を作る作業だった。たやすい作業では決してない。活字を使って自らの内面を活写することが、これほど難儀なことだという ことを、痛いほど思い知らされ、苦悶した。その苦しみの度合いが、ある閾値に達したとき、まるでリレースイッチが入るように、亀井はまたもや、幼いあの日 の光景を思い出してしまうのだった。
 鮮明とはいえない光の中。半ズボンをはいた、刈り上げ頭の少年の姿を、少し上から見おろしている。少年は胸 をえぐられるほどの憤りに満ちて、太陽に顔を向けている。それがどんな表情なのか、わからない。泣いているのか、怒っているのか、それとも、放心している のか。くやしいが、そこまでしか思い出せない。
 なぜだ!
 激しく揺さぶられる事件に出くわして、それがあまりの衝撃だったため、無意識のうちにそれを忘れようと努めているのか。それとも、いく度も繰り返して見た悪夢を、現実にあったものと勘違いしているだけなのだろうか。

 亀井がスレイヴのふたを閉じたとき、窓の景色は横浜だった。
 ボストンバッグのポケットから、『シ ンデレラの携帯電話』を抜き取った。表紙には、短いスカートの女子高生がルーズソックスを履いている絵があった。陳腐だ。ぱらぱらとページをめくってみ た。遊び半分で売春をしている女子高生から聞き取った内容を、小説仕立てにしたオムニバスである。
 ケッ。亀井はそいつを網棚に捨てた。胸の奥で、熱い闘志のようなものが沸き立つ。
 門土はまだいびきをたてている。
 「起きろ門土、東京だ」
 亀井は肘で隣の門土を揺さぶった。
 「死ぬほど退屈な会議が俺たちを待っている。あんなものにコピーされるんじゃないぞ!」

----- SCENE 4 -----

 陽はとっぷり暮れていた。やけに寒い。
 亀井は、内ポケットのスレイヴを、コートの上から撫で、門土は言葉少なに静かにたたずんでいた。二人は星永本社での全国課長会議にすっかり消耗していた。
  もちろん、会議という名の洗脳大会の出席者の大半は、毎度のことながら妙にうきうきしていた。特に地方の奴ほど元気で、月一回のレクリエーションみたいな 気分もあるのだろうか。社内情報を社外から収集するため来てる奴もいる。夜はマージャンでもどう? 赤坂あたりに飲みに行こうや、なんて声も飛び交ってい た。
 亀井は別会社の営業社員から、そして、門土は本社のシステム開発課の社員から、それぞれ飲み会に誘われていたが、笑顔で断り、別々のルートで渋谷に向かい、ついさっき、約束の三千里薬局の前で落ち合ったばかりだった。
  夜の渋谷には、目が痛いまでの脂っこいネオンに満ちあふれていた。店々のスピーカーががなり立てる呼び込みの声が股間を刺激する。女の尻をのろのろ追いか ける背の低い車からは、規則的なドラムの振動がほとばしり、重低音が下腹にしみてくる。ネオンの派手さはアジアそのものだ。ラブコールの携帯電話がそこか しこでキュルルと鳴る。
 亀井はきょろきょろ周りを見回してみた。
 それらしい集団は一向に現れない。時刻は夜の七時を少し回っていた。
 そこへ、スキンヘッドの奴らが、ふざけ合いながら近づいてきた。リーダー格らしき革のベストを着た男が、銀色に光る鎖をじゃらじゃらさせながら先頭を歩いてくる。しかも、まっすぐ亀井たちのほうに。
 まずい。
 亀井は、不良少年によるサラリーマン強盗の週刊誌記事を思い出し、おもわず身がすくんだ。
 まてよ。オヤジ刈りをするのはチーマーと呼ばれる奴らで、そいつらはこんな格好はしていないはずだ。どう考えても、こいつらは一昔前のロックンローラーじゃないか。
 サングラスをかけたリーダー格の大男のまわりを、若い女がちょろちょろしている。女の髪は、赤く染められ、火炎のように天に向かって反抗的に逆立っている。その横には、これ以上肥えられないという巨漢のモヒカン刈りの男もいた。
 あっ。
 亀井はハッとした。女が手に持っているのは、まぎれもなく、スレイヴである。
 ぎゃははははっ。下品な笑い声をあげるモヒカンの巨漢。その剃りあげた右の側頭には「We Love Copy」、そして、左側には「Happy Hacking[*44]」という刺青がくっきり見える。
 えっ、まさか。
 そんなはずはない。あの礼儀正しい福洒応恵という人が主催している勉強会のメンバーが、こんな荒くれ集団なわけがない。きっと、女が持っているスレイヴは、福洒さんたちから巻き上げた戦利品に違いない。きっとそうだ。そだそだ、そうに違いない。
 奴らの周囲半径一・五メートルに人はいなかった。人々は彼らに近づかないよう、わざと少し離れたところを通り過ぎている。
 そして、その一団は近づいてきた。
 わ。やばい。近づかないで。あっち行って。お願い。
 そう念じながら、亀井はなるべく目を合わせないようじりじり後じさりした。ふと見ると、門土はすでに自分の身長の三倍ほど離れた場所に待避していた。
 奴らは相変わらず、きょろきょろ周囲を見回している。筋骨隆々のリーダー格が、黒のサングラスを、剃りあげた頭にずりあげた。獲物を物色する肉食獣の眼だ。こっちを見ている。
 一瞬目があった。
 こわ。
 腰に鈍い痛みが走る。足がすくみ、逃げ出すにも動けない。ヘビににらまれたカエル。蜘蛛の巣にかかった蝶。野壺に落ちた老婆…。
 そのタコ入道は、一歩、また一歩と近づいてきて、亀井に向かって野太い声を出した。
 「あの」
 「ぼぼぼボク、ぼぼぼ暴力きらいでして…。ぼぼぼ坊さんが屁をこいた。ぼぼぼボボブラジルのココバット。ぼぼぼ牡丹灯籠は三遊亭円朝。ぼぼぼ盆の窪は首のうしろ…」
 「失礼ですが、ひょっとして、あなたは、カメイさん……ですか?」
 男は、革のジャケットからゆっくりとスレイヴを出しながら、歯をむき出して笑った。
 「は、いや、えっ、おっ、あっ」
 「いやはや、どうも初めまして」大男は両手で名刺を差し出す。「お待たせしたようでなんとも申し訳ございません」
 腰が低い。営業マンが初対面の得意先に示す角度だ。しかも背筋を伸ばして目をそらしていない。デキル。
 「わたくし、福洒応恵と申します。ここにいるのがサークルの常連メンバーでして」
 腰が抜けそうになるのを必死で踏ん張りながら、亀井は震える手で、差し出された名刺を、両手でうやうやしく受け取った。
 「ど、ど、同僚を連れて参りました。あそこに…」そう言って亀井は門土を探した。彼はずいぶん遠ざかっていて、心配そうな顔でこっちを見ていた。亀井の人差し指が門土に向いた途端、彼は背を向けて一目散に走り出し、人混みにまぎれて消えてしまった。
 「え、どちらにいらっしゃるのですか?」
 「逃げやがった… ぃや、ぃや、ぃや、そじゃないです。急用、急用ができたんじゃないかしら。ちょっと、けけけケツが弱くて、奴は」
 「残念ですねなあ。では亀井さん、参りましょう。お荷物、お持ちましょうか」
 滅相もございません、という仕草で亀井は男とは反対側の肩にボストンバッグを引っかけると、そいつを奪われまいと上から手でしっかり押さえるのだった。
 「あの、亀井さん。懐石でよろしゅうございますでしょうか」
 わざと口紅をはみ出して塗りたくった、赤い髪の女が亀井の前に回り込んで微笑みかけた。
 「はぃ」
 「無口でいらっしゃるんですねぇ、あ、あの、ボクもそうなんですよ」額にいくつもの傷痕があるデブのモヒカンが言った。
 「はぃ」
  ゴロツキと呼ぶにぴったりの連中に取り囲まれて、亀井が連れて行かれたのは、なかなか雰囲気のある料亭だった。玄関の庭を葭簀で覆い、細い石畳の通路の両 側には篝火が置かれていた。そこを、黒革と光り物で身を固めたロックンローラー軍団が悠然と歩き、風采の上がらないリーマンが取り囲まれている。
 「見た目より高くないんじゃよ」
 福洒はサングラスに篝火を映しながら亀井を見下ろして言った。口元は優しく笑っているように見えるが、心の中まではわからない。
 福洒が玄関に立つと同時に戸が引かれた。内側から下足番の男が開けてくれたのだ。
 「福洒じゃ」
 「はあ、お待ち申し上げておりました。いつもどうもありがとうございます」
 仲居に通された三階の一室には、すでに五人ほどの不良の男女がいて、福洒が、やぁ、と声をかけると、一堂礼儀正しく頭を下げた。
 部屋は十人程度がゆったり談笑できるゴザの匂いがする和室で、天井には大きく黒い梁があるのが見えた。切り窓に赤い月が不安定に浮かんでいるのも趣がある。
  「えへ。上品なところですねぇ。わたしみたいな安リーマンにはちょっと不似合いかも、へへ、へへへ」だれに語りかけるともなく亀井はつぶやいた。自分の表 情がじゅうぶん過ぎるほどひきつっているのがわかるが、どうにもならない。じっとしていると体が震えてくるもんだから、ちょっとでも緊張をほぐすにはしゃ べるしかないのだ。
 仲居が三つ指ついてふすまを閉めて出ていくと、部屋は静まり返る。鹿威しのコン!という音にも、亀井は肩をビクつかせた。
 「妙な格好して、さぞ驚かれたでしょうな」向かいに座った福洒が正座したまま言った。
 「はっ、ぁ、ぃぇぃぇ」
 「亀井さんはどんな関係のお仕事を? いえいえ、わたくし、見ての通りの坊主でございましてな、ちっぽけな末寺の」サングラスを外し、きれいに剃り上げた頭皮をぴしゃっと叩いてみせる。
 「見ての通り…ですか?」亀井が小声でつぶやく。
 福洒は、ほっほっほと笑うと、気軽にオーケーと呼んでください、と親指と人差し指で輪を作ってOKのサインをしてみせた。
 明かりの下で見ると、オーケー和尚はずいぶん老けて見えた。亀井よりもずいぶん年上だ。五十歳はゆうに越している。
 オーケー和尚の隣、つまり亀井の真向かいに座った派手な女が一礼した。
 「わたくし、お昼は某メーカー系パソコン教室のインストラクターをしております埼玉麗子と申します。みんなからタマレイなどと呼ばれておりまして」
 「やー、この娘は、若いのになかなかの根性がありましてな」和尚がにこやかに口をはさむ。「ついこないだも霞ヶ関のサイトにデジタル爆弾を放り込んで」
 「よしてくださいな、失敗した話なんて」
 なんだか怪しそうな雰囲気である。
  亀井は、先に来ていたメンバーからも次々あいさつされた。隣に坐ったモヒカンは前座のプロレスラーだという。リングネームも「悲観モヒカン」。先に部屋に 来ていたメンバーの名前は一度に覚えることはできなかったが、私立高校の社会科教師、コンビニ店員、商社マン、絵本作家、といろんな職業の者がいて、京都 府警の現職刑事まで参加してるのにはびっくりした。
 そんな自己紹介をしているうちに料理が運ばれてきた。静かに杯を交わす。酒は嫌いな方じゃない。互いに注ぎあううちに、気分も少しずつほぐれ、打ち解けてきた。
 「なーんだ。そーかー。だんだんわかってきたぞ。みなさん、ようするに、その、反逆児なんですな。だからこのミーティングにはそれっぽい格好をしてくるんだ」
 「ほっほっほっ」和尚が柔和な顔で笑うと亀井はすっかり安心した。
 それにしてもこの頭は念入りだなあ、と亀井がモヒカンの剃り上げた頭皮を触る。モヒカンは、やめてやめて、と照れ笑いした。見かけはともかく、この男は恥ずかしがり屋で気の弱いところがありそうだ。Happy Hackingという入れ墨を、ピシャピシャと叩いてみると、泣きべそをかきそうな顔をした。
 宴たけなわとなったところで、オーケー和尚が言った。
 「じゃ、そろそろやりますかな。そちらから、どうぞ」
 促されたモヒカンは、「アメリカの財務長官と為替市場について」と言ってから咳払いをした。
  モヒカンが言ったのは、アメリカの政府高官のちょっとした一言が、外国為替市場に大きな影響を及ぼすことがあるということだった。つまり、アメリカが円安 を懸念しているという意思がちょっとでも見え隠れすると、世界中の投資家たちがそれを先取りして、一斉に円買いになだれ込むようなことを説明した。むろん 当局はそうした動きを意識して発言している。そうした操作を口先介入と呼ぶのだという。
 「つまり?」埼玉麗子がたたみかける。
 「これって、情報が猛烈な速さでコピーされた例だと思うわけ。だから、金融市場ってのは、情報をたくさんコピーした方が勝ちっていうような、そんな気がしたんですよ」
 悲観モヒカンは腕を組みながら話し続ける。
  「レスラーのボクが解説するのも変ですが、外為市場っていうのはカネとカネを交換するところでしょ。で、カネの価値というのは、いったいどうやって決まる のか。こいつはとても難しい。いまの国際金融市場はあまりに巨大で複雑になりすぎて、俯瞰するには地球単位で見るしかないの。けど、カネなんて、元を正し たら所詮がモノの交換物でしょ。たとえばぁ、日本とアメリカの同じスーパーマーケットで、同じ大きさの買い物かごに、同じだけの商品を詰め込んで、それぞ れのレジに行ったとしましょうか。アメリカのレジでは十ドル、日本のレジで千円だった。そのとき、十ドルが千円ということになるよね。つまり一ドル百円」
 「おい、それは購買力平価というやつだぞ」そんなことも知らんのか、と言わんばかりに社会科教師が割って入る。一瞬、モヒカンは首をすくめた。
  「そそその購買力平価っていうのはぁ、市場ではなんの力もないんですよ。じっさい、通貨の価値っていうのは、だれか特定の人たちの意思で動かされているっ ていう気がするんです。しかもそれは、たった一言で十分ってこと。つまり、情報に左右されているわけだからぁ、そこに、ちょっとした力を作用させること で、投資家どもが…、あれ、わかんなくなっちゃったよぉ」
 つまり、あれじゃな、とオーケー和尚が口を開いた。
 「国際的にカネを売り買 いする市場があってじゃ、それは、実際のモノの値段とは関係なく動いておるということじゃの。なにを基準に売り買いされるかというと、力を持っとる当局筋 の情報とか、ジョージ・ソロス[*45]みたいな相場師の動きじゃろう。そやつらの動向は、あっという間に世界中の投資家の間を駆けめぐる。つまり、コ ピーされる。そんなもんだから、たくさんコピーさせたほうが勝ち。そういうことじゃな」
 悲観モヒカンがうなづいた。
 商社マンが手を挙げた。ちょっぴり自信なげである。
 「わたしたち、いつも為替にらんで仕事をしていますけど、わたしもやっぱり通貨っていう情報の奴隷なのでしょうか」
 「然り」とオーケー和尚が冷たく言い放つ。
 コンビニ店員が元気良く手を挙げて言った。
  「えっと。カネってのも一つの情報だよ。コインは外国でも通用する金属でできてるけど、お札のほうはそれぞれの国の中央銀行との単なる約束事だろ。日本の 場合は日銀なんだけど、日銀が経営破綻すればタダの紙クズ。海外じゃ通用しない。これって、かなりカゲキな情報だよね。ま、それはそれでいいとして、おい らが気になるのは、日米の金融市場じゃ、総体としての円という情報と、ドルという情報が、毎日いっしょけんめい闘っているっていうような気がするってこ と。十九歳の若造が生意気なこと言って恐縮だけどさ」
 「なるほど」麗子がうなづく。全員、コンビニ店員に注目した。
 「まとめちゃお う。通貨って情報は、自分の価値を高めて生き延びるため、懸命になっている生き物だ。市場に参加している投資家たちにいろんな情報をコピーさせてる。アメ リカの政府高官だって奴隷だ。日計新聞なんかでは、だれが得して、だれが損したなんてノンキなことばっかり書いてるけど、通貨っていう情報の生き残り作戦 についてはなんにも触れていない」
 鹿威しがコンと鳴り、池の鯉が跳ねてポチャリと音を立てた。
 そんな話し合いが延々続くなか、初参加の亀井に埼玉麗子がこのミーティングについて小声で教えてくれた。
  この勉強会は、もとをただすとクラッカーの秘密集会だったという。クラッカーとは、他人のコンピューターに侵入してデータを消したり盗んだりする、ちょっ ぴり危険なハッカーだ。しかし、オーケー和尚が中心に座るようになってからというもの、このミーティングは、禅問答のような話し合いが中心になり、プログ ラムのできない者も参加できるようになったという。
 亀井には、まだ話の中身がよく飲み込めないところがあったが、どこかくすぐられる気がして、面白くなってきた。
 「問題提起、次、いいですか」背広姿の刑事が手を挙げた。彼がしゃべり始めたのは十字軍に関する内容だった。
 十字軍。それは中世ヨーロッパのキリスト教徒が、聖地エルサレムをイスラム教徒から奪還するために、何度も送った義勇軍のことだ。
 亀井は膳の下でこっそりスレイヴを開き、「マイペダル百科事典」で十字軍の項目を探した。
《一〇九五年教皇ウルバヌス二世はクレルモン公会議でこの遠征を宣言し、十字架を戦士の標識と定めた》
  それに続いて、一一世紀から一三世紀にかけて都合八回にのぼる大出兵がおこなわれたとある。初期のころは、キリスト教の封建貴族たちが頑張りまくって、セ ルジュクトルコの人々を惨殺し、四つほどのキリスト教国を創った。だが、一二世紀に入るとイスラム側が盛り返して、エルサレムを奪い返した。キリスト勢 は、腹いせに、ハンガリー帝国やビザンティン帝国に攻め入ってラテン帝国を建ててみたり、エジプトに出かけて全軍捕虜となったり、けっこう間抜けなことを していたらしい。
 でも結局、キリスト勢は、セルジュクに代わって隆盛したオスマントルコ軍にコテンパンにやられる。とうとう教会の権威は地に墜ちた。
 刑事が警察手帳を見ながらいった。目つきがやけに鋭い。
 「ものの本には、十字軍は失敗に終わったけど、キリスト勢の商人たちの間で東方貿易が盛んになったり、高度なアラビア文化や科学が伝播した。このため西欧は、後の世に大いに盛り返すことになった、なんて書かれています」
 今度は埼玉麗子が手を挙げる。
 「どうぞ」と刑事。
 「つまり、大勢の人が移動すれば、一緒に技術なんかの情報もくっついてまわる。情報と情報が衝突することもあれば、相乗効果っていうのでしょうか。互いに影響を与え合うってこともあるような気もしますわ。ちょっとまとまらないけど」
 またもや元気なコンビニ店員が手を挙げた。
 「えーっと、おいらが思ったのはですね、ちょっと乱暴だけど、十字軍の遠征っていうのは、キリスト教って情報が、敵対するイスラムって情報を抹殺しようとしたんじゃないかなってこと。命がけの兵隊さんたちも、ただのコピーの道具だったっていう気がするんだよな」
 迷彩色のペインティングをした絵本作家が口を開いた。
  「中世ヨーロッパのキリスト教って、絶対的な権威だったのでしょ。だれも逆らえなかったんだわ。だれもが奴隷。たぶん教皇さまだって、キリスト教情報の奴 隷。情報ってものは自分が生き残るために、時にはかなり破壊的なこともするんですのね。宗教に救いを求めるなんて、なんだか救われない話に聞こえるわ」
 「ほっほっほっほっほ。みなさん、今宵は冴えてますなぁ」
 「せっかくですから、亀井さん、問題提起してみませんこと?」
 埼玉麗子がお銚子を傾けながら微笑んだ。
 「は。や、でででも、何がどうなっているのかよくわからないんですよ、こちらのルール」
 「ただの雑談ですのよ。ミーム[*46]ではないか、というものを次々あげてみるだけの」
 「ミーム? 何です、それ」
 「まだお読みになってらっしゃらないのですか、あれほど有名な本を」
 埼玉麗子はちょっと呆れたというような顔をしてから、ミームの説明をしてくれた。それは、リチャード・ドーキンスというイギリスの生物学者が書いた『利己的な遺伝子』という本に紹介されている希有壮大な仮説だった。
  地球上のあらゆる生物は、遺伝子を次の世代に伝えながら、死んでいく。しかし、これを逆さメガネで見ると、遺伝子が生物を乗り継いで生き長らえているとも 見ることができる。そう考えると、生物は遺伝子のコピー機のようなものだ。ドーキンスはあらゆる生物は、むろん人間も含めて、遺伝子を運ぶ単なる機械じゃ ないんだろうか、といったという。そんなことを説明してから、麗子はこう続けた。
 「それだけじゃありませんの。ドーキンス先生は、文化も、遺伝子のようにコピーされてるという仮説を書いておられます。文化も生き長らえようとしているんじゃないかということ。それを、遺伝子=ジーンに対して、ミームと名付けられてますのよ」
  「ある少年が野球帽を後ろ前にかぶったとしませんかのぉ。それを見たクラスメートが『お、いかすじゃん』なんて、自分も野球帽を後ろ前にした。それがイン フルエンザみたいに流行する。クラスじゅう、学校じゅう、あるいは町中に。そういうのもミームなんじゃ。自分のコピーを作る。自分で自分のコピーを作ると いうのがポイントじゃな。自己複製子という言葉をドーキンスは使うてましてな。えらく上手にミームを紹介しとるのです」
 モヒカンが手を挙げた。
 「たしか高校の理科の授業で、遺伝子っていうのは、蛋白やら塩基やらでできていて、複雑な暗号文だってこと教わりましたよ。暗号って、情報じゃないですか。遺伝子だって情報ってことになりませんかね」
 「そんなこと言ったら、世の中どこをほじくり返しても、なにからなにまでぜーんぶ情報だらけになっちゃうんじゃないかなあ。こうして話し合っていることだって情報の伝達だし」亀井は口をとがらせた。
  「そうじゃよ。わしらは、情報についての情報。その情報についての情報。そして、その情報についての情報について… そんな情報を、ああでもないこうでも ない、とやりあっておるのじゃ。ほっほっほっ。すべてが情報。情報こそすべてじゃ。情報と情報がぶつかりあい、混ざり合い、これまでのジャンルに入りきら ないような、新しい情報を生み出すんじゃ」
 これまでのジャンルに入りきらない! 亀井は和尚の言葉にピクリとした。ここにはなにかがある。自分が書こうとしているもののヒントになりそうなものが。
 「あはは、そうですか。なんだか難しいなぁ。ぼかぁ最近、利己的なジェリィ平賀の本しか読んでないもんで、へへ、へへへ」
 「あら、平賀なら先月のミーティングで私が報告しましたわ」埼玉麗子がいった。
 「え、そうなんですか」
  「平賀が過去三年間に出版した本の内容と、新聞雑誌での発言を、マスコミ各社のデータベースにお邪魔して調べ上げましたの。それがどのように社会に影響を 及ぼしたかも検証いたしました。でも、結局のところ、彼は大した対象ではありませんでした。平賀自身が生み出した言葉や視点が見つからなかったんですも の。全部請け売り。ほら、通信衛星のトランスポンダと同じで、単なる伝達系の中の増幅役だったんです」
 「伝達系の増幅役?」
 「そうで すわ。平賀っていうのは、だれかが見つけだした社会現象を、いったん自分の中で消化することもなくスグに吐き出してしまいますの。つまり、だれかさんの発 見をパクって、マスコミを通じて大量コピーしてるだけ。下品にもうしますと、拡声器を持った小判鮫でしょうか」
 おお、拡声器を持った小判鮫! なんてピッタリする皮肉だろうか。亀井は妙に嬉しくなった。
 「おやおや、元気が出てきましたな、亀井さん」和尚が熱燗を注いでくれた。
 じゃ、ひとついいですか、と亀井は手を挙げた。
 「これは単なる雑談のネタとして聞いてください。コンピューターのOSって、お経だと思うんですね。そいで、ウインドウズとかマックとかっていうのは、各宗派ごとのお経みたいな気がしとるのです。それなら、このマネドスというのもお経なんだなと…」
 亀井は初めてDOSというOSのことを門土から教えてもらったときのことを思い起こしながら、自分なりの理解を確かめるのだった。そして亀井は聞いた。
 「で、唐突ですけど、お経っていったいなんですか」
  「ほっほっほ。そうですな。仏教に限っていうと、釈迦が死んでから弟子どもが作った仏教情報じゃな。釈迦がどう言った、こうした、というのを記録しただけ の情報じゃ。そこには釈迦の思想が込められていて、お経中心にやっておれば、道を踏み外す危険もない。そんなわけで、お経は次第に絶対的なものになってし もうた。そういえば、古代日本の修行僧も、お経のコピーを取りに行くために命を張ったもんじゃよ。遣唐使船に乗せてもらって大陸まで渡って、写経、つまり お経のコピーに全人生を費やして、よし帰るぞ、と乗り込んだ船が沈んじゃったりしての」
 「電子メールならほんの数分で済むのに、そんな文字列コピーのために一生を棒に振ったお坊様がいらしたなんて…」絵本作家が涙ぐむ。
 鹿威しがコンと鳴り、池の鯉がポチャンと跳ねる音がした。
 その後も小難しい問答が延々続いたが、メンバーの血中アルコール濃度も高くなるにつれ、なごやかさも増す。亀井はすっかりリラックスして会にどっぷり溶け込んでいた。
 「なんだかみなさんの話を聞いていると、学生時代にちょっとかじったプラトンのイデア[*47]論を思い出すんだよな。イデアとミームは、なにか共通点でもあるんですかねえ」
 和尚がにこやかに口を開いた。
  「イデアは絶対的に不変なものじゃよ。プラトンは自分は死んだらイデアの国に行くと話しておったようじゃ。つまり、イデアは、浮き世の感覚を超えたところ にある、理想的な認識のことなんじゃろ。まず、イデアという純粋な観念があって、それがあって初めて我らの世界がイデアの映し絵として存在するというわけ じゃ」
 和尚は埼玉麗子から酌をしてもらった杯を一気に干す。
 「それに比べると、我らがこうして毎月話し合っておるのは、しょっちゅう 生滅変化しておる情報じゃ。イデアみたいに純粋な観念ではない。じゃが、亀井さん、プラトンのイデア論もミームですぞ。二千年の歳月を経て、こうしていま も語り伝えられているというのは、超長生きのミームと言えませんかな」
 そういって和尚がてかてかの頭に手をやろうとした瞬間、怒号が轟き、ふすまが倒れてきた。
 和尚と埼玉麗子がその下敷きになる。
 アチョォォォォォーーッ!
 ブルース・リー[*48]の声だ。
 その痩せぎす男は、ヌンチャクを振り回してポーズを作っている。
 「カメさん、助けに来たアルよ。急ぐアル!」
 「門土! おまえ」
 言うが早いか、まず商社マンと刑事が、ヌンチャクの餌食になった。樫の木が頭骨を打つ音が響く。
 いだだだだー。商社マンは這いつくばって泣きだした。刑事は失神して泡を吹く。レスラー見習いのモヒカンは腰が抜け、亀井の腕にすがりつき、歯をガチガチ鳴らして震えている。
 「よせ。よさないか、門土」
 キェェェェェェーッ! 門土はヌンチャクをめちゃめちゃに振り回す。顔をこわばらせ、親指をちょこっと舐める細かい芸も真に迫っている。門土はブルース・リーだった。いや、カンフー映画のブルース・リーのミームが門土を暴れさせているんだ。
 倒れたふすまの下から、和尚の念仏と麗子の呻きが漏れてきた。門土がふすまを蹴り上げると、二人は抱き合ってがたがた震えている。
 「やめるアル! この人たち、いい日本人のことヨ。やめるアル、やめるアル!」亀井はそんな言葉を口走りながら門土を説得しようと試みる。
 だが、門土は、そんなことお構いなしで、オーケー和尚の頭に照準をあわせてヌンチャクの遠心力を強めた。
 危ない。当たると死ぬ! 亀井は機転のタックルで門土に飛びかかった。
 門土はバランスを失った。
 勢い余ったヌンチャクは、ブーンと唸りを上げて門土の肛門を的確にヒットした。
 くわーっ。
 鮮血が畳にこぼれ落ち、片膝をつく門土は憤怒の形相に。
 「だから言わんこっちゃない。このスットコドッコイめ!」亀井は門土に肩を貸し、逃げるようにして部屋を出ようとした。
 ちらと振り返ると、腰が抜けた麗子と和尚は、割り箸で十文字を作り、悪魔払いのポーズを作っていた。

========== ACT 8 に続く ==========

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