Act08

ACT 8

SCENE 1

 花の蜜を吸う蜂や蝶は一見能動的に見えている。だが、花の側からすれば単なる花粉の運び屋に過ぎない。そん なアナロジーを、人間と情報に当てはめるオーケー和尚こと福洒応恵氏たちの集いは、ジャンルを超えた新しく根元的で本質的で普遍的ななにかを記そうする亀 井にとって刺激的だった。それがヒントになって執筆に弾みがつきそうな予感もしていた。

 そんなところへ門土の奴がヌンチャクを持って乱入したものだから、勉強会はメチャメチャになり、和尚たちにえらい迷惑をかけてしまった。
 当の門土も、ヌンチャクの自爆で肛門を痛打して、入院はすでに二週間を超えていた。奴は病院のベッドの上から、和尚にいく度も謝罪の電子メールを書いたというが、いまだに返事をもらえないと嘆いている。返事がもらえないのは、亀井も同じであった。
 すっかり嫌われてしまったのかなあ。せっかく面白い人たちに出会えたというのに。そんなふうに考えると亀井は口惜しくてならなかった。
 すべては門土が悪いんだ。
 悪いことは重なるもので、網タイツに転載されている新聞記事もここ一週間まったく更新されなくなった。そればかりか、姉小路のパソコン通信ネット、網タイツへのアクセスすら、ここ数日ままならない。
 ひょっとして、姉小路のホストコンピューターが壊れでもしたのか。はたして…。

 亀井はその夜、病院の門土に電話をしてみた。彼は携帯電話を病室にこっそり持ち込んでいるのだ。
 「ぜったいに僕らのマシンの方は大丈夫です。問題は網タイツのほうですよ」受話器の向こうから門土の自信たっぷりな声がした。
 「なんか臭うと思いません? カメさん、ちょっとクサイっすよ」門土は、あしたチームの仲間に電話してみる、と言って電話を切った。
 亀井が受話器を置いてリビングに戻ると、敦子とヒロミがバカなテレビ番組に見入っていた。
 頭の悪そうなタレントがつまらん芸をやるバラエティーである。よりによって、今夜のゲストはジェリィ平賀だったりする。
 「お前ら、そんなバカ番組を見てるときだけは仲のいい母娘だな」
 「あら、けっこう面白いのよ。平賀さんが出てるんだもん」ヒロミが振り向いて言う。可愛い顔しているのは仕方がないが、平賀が出ている番組など、娘に見てもらいたくない。
 「スポーツニュースが見たいなあ、父さんは」
 「ちょっと、うるさいわね」敦子がボリュームを上げる。ヒロミも母に従ってテレビに顔を向けた。
 画面には平賀の顔がアップで映し出されていた。美少女アイドルの横に座らされてニヤケ顔になっている。司会者が平賀を紹介して、軽いタッチで質問を始めた。
 --平賀さんの初体験は?
 --やだなあ、いきなりそんなこと聞くんですか、この番組は。
 --なに言ってるんですか、パソコンの初体験ですよ。
 --なーんだ。あはは、実は最近なんですよ。あはは。
 ウォーム騒動のころに見せていたヒステリックな雰囲気はみじんもない。なんとなく、お人良しのおじさんのように映っている。
 --どんなOSをお使いですか?
 --もちろん、マラクロソフトのウインドウズです。マックを買おうかなと思った時期もあったんですけど、なんだか将来がなさそうだからね。おっと、スポンサーにアップルさん入ってませんでしょうね。
 --おお、心得てるなあジェリィさん。この番組は天下のマラクロソフトの提供でお送りしていまーす。それじゃまずCMいきましょうか。
 司会者がそういうと、カメラは再び平賀にズームインする。ほどなくMSの宣伝が流れてきた。
 「やめてくれよ。いつもいってるだろ、俺はあいつの顔を見ると虫酸が走るって」
 「そんなにいやなら、パパ、先に寝ればいいでしょ」
 「じゃあ寝るさ」少しムっとした。「その前に、敦子にもヒロミにも、ちょっといっておきたいことがあるんだ」
 そういうと、亀井は咳払いをして、おもむろに、人間ドックでうつ病の疑いがあると診断されたことを明らかにした。
 「家でもそうだが、会社でもぶつぶつ独り言をいってるようだし、自分でもちょっと心配なんだ」
 「あんたぁ…」なにを言い出すのよという表情で敦子はテレビの音量を少し絞る。そしてしばしの沈黙。
  「たとえばだ」亀井が沈黙を破る。「俺がちょっとタバコを買いに行くと出ていったきり、消息不明になったりして、三年ほどしてからテレビ公開捜査でようや く見つかったときには、ひなびた温泉旅館なんかで、いい歳して板前の見習いしてたり…… なーんてことも覚悟しておけよ」
 「パパ!」ヒロミは急に悲しそうな顔でテレビのスイッチを切る。その尻から、敦子がリモコンでスイッチを入れなおして、ボリュームを少し絞る。
 「とにかく二人とも、俺のことを変な目でみないで、温かく見守って欲しいんだ。いまの俺に必要なのはお前らの愛情なんだ」
 亀井がそういうと、ヒロミが涙ぐむ。「心がこわれちゃったの? パパ…」
 亀井も胸の奥がうずく。
 「わからん。とりあえず明日、会社休んで人間ドックの担当医んところに行ってみるよ」
 「そんなに深刻になることないわよ。あんたは嫌いでしょうけど、これ読んでたらね」
 そう言って敦子が一冊の単行本を食卓の上を滑らせてよこした。またしてもジェリィ平賀の本である。亀井は敦子に軽い殺意を覚えた。
 『糸の切れたパパ凧』--。本の帯には、リストラという名の強制退職がどうしたこうしたと、おどろおどろしい文句が並んでいる。隅っこには、笑顔の奴の写真がプリントされていた。
 「会社で出世しようなんて考えたらアカンのよ。もっと肩の力を抜いて、本当のあんたを取り戻せばええの」
 「面白そうな本だな。また今度、読ませてくれよ」
 まるで汚いものでも扱うかのように、亀井はその本を、中指で敦子のほうに押し戻すと、一人寝室に向かった。ドアを閉めた途端、テレビのボリュームが元通り大きくなった。
 敦子のやつ。
 布団を頭からすっぽりかぶって目を開ける。急に「俺の人生は…」なんていう言葉が頭をよぎり、なにバカなこと考えてんだ、と打ち消そうとした。
 とくにジャンルはない--。そんなふうに書き始めたやつも、また最初から書き直さないといかんな。あれじゃあまりに嘘くさい。俺が書こうとしてたのは、あんなものじゃない。
 正直いって、表層の上澄みをかすめ取って生きている君島助松が一方的に嘘くさいんじゃない。俺だけがまっとうであるなんてことはないんだ。
  毎日決まった時間に通勤電車に乗り、忍耐力を求められる繰り返しの仕事をこなして、生きていくのに困らない程度の給料をもらい続ける俺の、いったいどこが まっとうだというのだろう。俺の人生なんて、ガキを作って遺伝子を後世につなげるほか、くだらない情報をやりとりするだけのものじゃないのか。そんなん じゃ、君島以下だよ、ちくしょうめ。
 ふと振り返ると、夕暮れの公園に少年の小さい背中が見えた。それが幼い日の自分であるということはすぐにわ かった。友だちがみんな家に帰ってしまったので寂しそうに独り遊びをしている。木べらでアリの巣をほじくり返している。掘れば掘るほどアリの巣は大きく広 がるばかりで、崩れてしまった砂の窪地から、いくつもの兵隊アリが湧き出してきた。
 少年の後ろに、白髪の男がそっと近づいた。なんの根拠もないが、亀井は、瞬間的にその老人も、自分だとわかった。
 こうもり傘のように痩せこけた老人は、後ろから少年の肩に手を伸ばした。
 だめだ! 過去の自分に触れちゃだめだ。そんなことをしたら矛盾が起きて世界は消える。
 だけど、なんとしても確かめたい。自分がいったいなに者なのかということを。
 老人は、あと少しというところで、急に手を引っ込めると、肩を落として夕闇に消えていった。幼い日の自分に何かを伝えようとする老いた自分。その光景を映画でも見るようにながめる自分がいる。
 本当の自分はいったいだれなんだ。
 赤剥けの背中に突然、鉄錆を擦り込まれたような感覚が襲ってくる。なんてこった。ちょくしょう。
 そこへ、ぬっとマイクが出てきた。
 マイクを握っているのは、ニヤけた顔をしたジェリィ平賀こと君島助松であった。
 --眉間にしわなんか寄せちゃってまあ。
 --放っといてくれよ。
 --救いようのない奴だな。ぜんぜん変わっちゃないぜ、学生時代から。あれをよく見ろ。お前はただの一匹のアリなんだよ。
 --うるせぇ。こちとら、お前と違って、まっとうに生きてんだ!
  --ほらほら、見てみろよ。すっかり崩れちゃった巣の中でアリどもが一生懸命もがいてるぜ。おい、見ろよ。暗くじめじめした世界で一生働きづつける兵隊ア リどもを。そいつらが、ひょっこり地面に出てきて、びっくりした顔してるのが、見えるだろ。ほら。お前の足下だ。そんなアリどもにマイクを向けたら、奴ら なんて言うか知ってるかい?
 --うるさいな、放っておいてくれって言ってるだろ!
 --そうさ! 兵隊アリどもはみんなそう言うんだ。 放っておいてくれってな。どのアリも、自分はまっとうに生きてるって信じ込まされてるのさ。奴らの脳はそんなふうにプログラミングされてる。少年が悪さし て世界をぶちこわしたことも、自分が奴隷のような一生を送っているってことも、なにも判らない。お前も余計なことを考えなくてもいい。くだらない機械じみ た人生の苦痛なんて直視するもんじゃない。どうあがいてみたって人生なんて、絶望的な日常の反復と継続さ。なにも考えないに越したことない。そして、人生 の締めくくりに、自分の人生もまんざらじゃなかったな、なーんてノンキに振り返るほうが幸せってもんさ。さぁ眠れ、静かに眠るんだ。
 そういうと君島は突然、姿勢を正して言った。
 --現場からジェリィ平賀がお伝えしました。
 奴は、カメラクルーに向かって「さ、次の現場行こ、仕事、仕事」と軽い足どりで去っていった。
 そんな妙な夢から覚めた亀井は、いびきをかいてる敦子の寝顔を一瞥すると、リビングに移動して、ソファに座った。
 窓には薄明かりが差し込んでいた。すでに朝である。
 スレイヴを取り上げて青キーの一つを押すとアネキの筆箱が起動する。
 --体調がすぐれないので今日は休みます  亀井遠士郎
 それだけを書くと今度は別の青キーを押して、ねえやの糸電話を起動してFAX送信を選ぶ。モジュラーをつなぎ、営業二課のFAX番号を打ち込んで、最後にEnterキーを押した。
 たった一行のFAXが無人のオフィスに届いているはずである。
 はたして、正解だったんだろうか、こいつを買ったのは…

SCENE 2

 「先月の十五日にここに来た者ですが、無料カウンセリングが受けられるというのを聞いて来てみました」
 人間ドックの受付の女性にそう言うと、あちらのソファに座ってお待ちくださいと手で示された。そこには自分と似た年格好のサラリーマンが二人いて、亀井が近づくと座る場所を空けてくれた。
 ここに来る男たちは、糸の切れた凧のようなオヤジどもなんだろうか。
 受付の女性がやってきて、亀井よりも早くいた男に声をかけて奧の部屋に案内した。亀井は内ポケットからスレイヴを取り出して、スケジュールのソフトを起動すると、「うつ病のカウンセリング受診」と記録した。
 「あれ、スレイヴじゃないですか姉小路の」
 一人の男が声をかけてきた。やけに太った男で、いかにも神経を病んでいそうな話し方だった。
 そうですけど。そっけなく亀井が答えると、彼は、わたしも持ってるんですと言い、やはり内ポケットから同じものを取り出してニヤリと笑った。
 少し話してみると最初の暗い印象はどこかへ蒸発して、妙にウマが合うのがわかった。しばらくマシンの使い方や内蔵プログラムの裏技などについて話し合った。
赤の他人でも、スレイヴを使っている者同士の連帯感みたいなものがあるのだ。
 どうです、カウンセリングの後でお茶でも、と亀井が誘うと、いいですね、と二つ返事だった。

SCENE 3

 その個室には、眠そうな目をした太った男が座っていた。そいつは精神科医だった。
 亀井遠士郎さんですね。ええと、ああ、これだこれだ。そんな独り言をいいながら医師は、問診票の束から亀井のものを取り出す。「えー。はあ、なるほどね…」
 「やっぱり、おかしいんでしょうか」
  「うーむ。いえいえ早まっちゃいけませんね。なぜって、うつ病なんて、ほんとのところ、よくわからんのですよ。なんで人がうつ病になるのか。なんで治った のかとかもね。だれだって大なり小なり気分の波があってですねぇ」そんなことをいいながら医師はいくつか質問をしてきた。
 家を出た後で、アイロンをつけっぱなしにしたのではないかと気になりますか? 炊事のあと買い物に出かけて、水道をきちんと閉めたかどうか心配ですか? そして、高揚した気分と沈滞した気分が周期的にやってきますか?
 おいおい、それは女性向けの質問じゃないのか。
 医師の質問の仕方がマニュアルを読むような感じで、さすがに亀井はムッとした。
 そんなんでわかってたまるか、と亀井は心の中で毒づく。
 「いえいえ、これに引っかかったら、うつ病です。でも、正直に答えてくれないと、本当はうつ病なのに、そうじゃないっていう結果になりますよ」
 亀井はなんだか拍子抜けした。お座なりな質問と、それに輪をかけたような回答がしばらく続いた後で、医師はいった。
 「大丈夫。亀井さん、あなた、うつ病なんかじゃないですよ。安心していいですよ」
 「そ、そですか」
 「いえね、サラリーマンでも特に、中間管理職に差しかかるあたりで、うつ病が多くなるなんて、よく週刊誌なんかに書かれてるでしょ。あれの影響なんだと思いますよ。急にうつ病が激増してるのは変ですし。本当のうつ病で苦しんでる人な
ら、こんなところに来ないですよ」
 亀井はなんだかコケにされたような気がした。じゃ、なんでこんな無料カウンセリングをやってるんだよ、この野郎! と思った。
 医師は一瞬、頬の肉をぴくりとさせた。
  「そんな怒らないでください、ね、ね。大きな声では言えませんけど、商売なんですよ。人間ドックなんてところは、ちょっとした疑いがある段階で大げさにや るんです。そのほうが喜ばれるし。私は毎週金曜日だけ大学病院からここに来てるんですよ、アルバイトでね。でも、病院に入院してる患者なんて、あなたどこ ろじゃない。もう、ほとんど病気です」
 あったり前じゃないか! と思った。
 「そりゃ、ま、そうなんですけど、大変なんです。私がこれ まで診たなかでは、ポキンと折れた感じの人が一番厄介なんです。知らず知らずのうちに自分で自分を有能な人間なんだって思いこませて、それがプツンと切れ た感じとでも言いましょうかねえ。押し出しが強くて豪快に見えるタイプが一番危ないんですよ。多かれ少なかれ、人間ってのは弱みを見られるのを恐れます。 そのまま一生を終えられたらいいですけど、途中でポキンとなるとね。向こうに行ったっきりなかなか帰って来れない」
 亀井は弐志部長のことを頭に思い浮かべていた。
 「短い人生、楽しまなきゃ損ですわ。あまり深く考え込まないで、大きく行きましょう。がはっ、がはははっ」医師はそういってわざと豪快に笑ってみせた。

SCENE 4

 待合いのソファで、精神科医とのやりとりを思い出してスレイヴに記録していると、さっきの男が、やあお待たせお待たせ、と戻ってきた。
 「リアルタイムの日記ですか」
 「うん、まあ。毎日じゃないけど、思い出したように付けとるんです」亀井はニカっと笑った。
 連れだって人間ドックを出た。
 駅前に出て喫茶店に入るまでの道々、互いに自己紹介した。男は関西でフリーライターをしている太森明夫と名乗った。ナカモリという若手評論家をさらに太らせたような肥え方である。
 「刺激の多そうなお仕事ですね」
  「浮き草稼業ですよ。売れっ子でもないかぎり生活は安定しないし、嫁さんにも逃げられるし、うつ病の疑いまでかけられるし」苦りきったような笑顔をみせ る。 マスコミ関係。それは亀井が軽蔑している商売ではあったが、その語り口や、やけに地味な雰囲気は、むしろ好感が持てた。
 太森は、亀井が何 気なくデジタル辞書を使っているのを見るや、素晴らしい、を連発した。じゃあコピーしてさしあげましょうということになり、かつて堺筋のエスニックの店 で、門土にしてもらったことと同じことをしてあげた。ふだんからものを書く仕事をしているだけあって、太森はいたく感激していた。
 ところで太森さん、最近はどんな取材をされてるんですか、と亀井は訊ねた。
 「いまちょうど、姉小路権蔵さんのインタビューに取りかかったところでしてね。姉小路無線の創業者の」
 へえ。面白そうだな。ぜひ読んでみたいと亀井は思う。
 「権蔵さんちに行ったら、こいつを買え、買え、ってうるさくって。仕方なく買ったんですが、なかなかどうして。知れば知るほど、姉小路権蔵という男のしたたかさがわかりましたよ」
 太森はもともと理系の出身だが、コンピューターには詳しくなく、仕事上しかたなく、ラップトップのばかでかいワープロ専用機を使ってきたという。
 「でも、やっぱりこれが一番です」
  太森が知り合いのパソコンライターから教えてもらったところによると、スレイヴは何世代も前の遅いチップを積んでいるという。しかもOSはDOS。だけ ど、使っているソフトは容量の小さいものばかりなのでチップに負担がかからず、サクサク動く。マックやウィンドウズのように画面が凍り付くような故障もな く、安定度はズバ抜けているとか。エディターにしても通信にしても、ファイル転送プログラムにしても、全部プルダウンメニューで使い方が統一されているの も親切だと太森は力説した。
 「OSにしろ内蔵プログラムにしろ、従来の製品のあらゆる長所をパクりまくったっていう感じなんですって、知人が褒めてましたよ」
  やけに興奮した太森の話しぶりに、亀井は親しみを覚えた。門土や紺譜伊具の女将のようなハッカーじゃなく、ふつうの男が自分と同じ無名なスレイヴを喜んで 使っているというのは安心につながる。それに、太森をかくも饒舌にさせる姉小路権蔵という男は、さぞかし魅力的な人物なんだろうな。
 「いえい え、引っかき回すのが好きなんですよ、あの爺さん。根っからのひねくれ者でしてね。自衛隊をクビになってから人生が転がりだしたんですよ。自衛隊では通信 関係の部署にいたそうなんですけど、ところ構わず電話や無線を盗聴していたのが見つかってクビ。実家に戻ってからは得意の盗聴を活かして探偵事務所を始め たんですけど、足でコツコツ稼ぐっていう地道な仕事ができずに、すぐ盗聴に走っちゃうもんだから、あえなく廃業。仕方なく京都で細々と盗聴器を作ってた。 もっとも権蔵さんに言わせりゃ、盗聴器じゃなくて公共の電波を傍受するラジオの一種ってことになるんですけどね」
 姉小路っていう会社は、ずいぶん怪しげな爺さんの私物なんだな。
 亀井はテーブルのスレイヴに目を落とす。デジタル辞書のコピーは大半終わっていた。
 「記事にするのもはばかられるようなこともいろいろあるんですが」太森は思い出し笑いで吹き出しそうになっている。
 どんな雑誌に載るんだろうかという疑問が亀井の頭に浮かんだ瞬間、太森は『心配』『不快』『私の病気』という健康雑誌に順番に載る、と答えた。
 「お達者さんを紹介するんですよ。長寿の秘密を言わせたりして。で、爺さんの健康法は反逆の精神なんですよ」
 なんでそんな雑誌に。せっかくならパソコン関係の雑誌に書いた方がいいんじゃないのか、と亀井が言おうとした途端、太森はわっはっは、と吹き出した。
 「冗談きついですね。爺さん、業界の敵なんですよ。パソコン雑誌のほうから拒絶されますよ」
 太森の話を聞けば聞くほど、亀井は自分が極めて特殊な会社の特殊なパソコンを触っているという実感が湧いてきた。
 ウエイトレスがわざとらしく水を取り替えに来きた。喫茶店はランチタイムになり、急に混雑し始めた。

SCENE 5

 帰りの電車の中で、亀井は、ふと不安になった。
 あの精神科医といい、太森というフリーライターといい、俺がふと頭に浮かんだ疑問にきちんと答えていたよな。そんなテレパシーのようなことがあるのだろうか。
 どう考えても妙だ。そんなことって…。

SCENE 6

 昼過ぎ。
 ただいま、と家に入ると、「おかえりなさい、あなた」と敦子が玄関に出迎えにきた。玄関に出迎えてもらうのは、新婚以来である。
 「カウンセリング、どうやったの」
 「はは、心配ないって。取り越し苦労だったみたいだ」
 「ああ、よかったぁ」敦子は涙を浮かべて抱きついてきた。「心配してたの。ほんま、よかった…。うっ、うっ。ほんま…」
 敦子は亀井に抱きついたまま泣きだした。化粧っ気のない目尻にはしっかりとしわが刻み込まれて、えらく迫力のある醜女面である。亀井はしぶしぶ抱き返すしかなかった。
 「あんたがゆうべ寝室に入ってから、ヒロミにずいぶん叱られたの。いやな妻でした。ごめんなさい」
 さすがヒロミだ。だけど、お前に急にしおらしくされても困るんだよな。迷惑そうな表情になるのを抑えるのに懸命な亀井であった。これがバカ女じゃなくてヒロミだったらどれだけ嬉しいだろと思った瞬間、敦子の体がピクリと反応した。
 「バカ女とはなによ。人が心配してるっていうのに!」
 突然、敦子に突き飛ばされた。
 「あたたた」
 玄関ドアに後頭部をしたたか打ちつけ、思わずうずくまる。目の前に星が飛びまわる。軽い吐き気とうめき声。なにがなんだかわからない。
 バカ力のバカ女め! 急になにしやがるんだ、もうセックスしてやらんぞ、と亀井が心の中で叫ぼうとした瞬間、敦子が「ええ、こっちこそ願い下げだわっ!」と睨み付ける。
 え? なんのことだ。いったいどうしたんだ。俺は何もしゃべってないのに。
 「なにを、いけしゃあしゃあと」
 え? なんだ、なんだ。これって、テレパシーかなにか?
 「ケンカ売ってんの? 大きな声だしておいて、人をバカにするのもええ加減にさらせ!」
 亀井はようやく事情を飲み込み、そして、愕然とした。
 自分の思考が独り言となって漏れていたのだ。そんなことってあるんだろうか。なんの自覚もないっていうのに。
 …やっぱり俺は病気なんだろうか。
 「そうよ、あんたはビョーキよ」
 なんてこった。よしてくれよ。とんでもない。泣きたい気持ちになって、鼻をぐすんとすすると、鼻血がこぼれてきた。

========== ACT 9 に続く ==========

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