Act10

ACT 10

SCENE 1

 疲労と安堵が全身を包む。心の底から生きているという実感が湧く。そして亀井は玄関に出たところで、優しそうな四つの瞳に出会った。
 「おお、大丈夫だったんですね。よかったよかった」
 「わお、カチョーだ。カチョーだ」
 太森と雨季川である。
 「ねーねー。ラジオを聞いてたらハッカーの悪い女は釈放されたんですって」
 「そりゃよかったな。で、太森さん、これからどうされるんですか」
 太森はため息をついて話す。
 「府警の広報と、記者クラブの記者たちからいろいろ話を聞いたんですけど、逮捕された権蔵社長はとうぶん釈放されそうにないってことでした。つまり」
 「つまり?」
 「仕事がひとつ、吹っ飛んじゃいました」太森は肩を落としてみせた。
 亀井もため息をついた。
 「われわれも門土君を連れて帰る目的を果たせませんでしたし。ま、きょうのところは、ゆっくり帰りましょうや」
 三人は冬の夕暮れの都大路を、ゆっくり練り歩いた。
  さっきまでの騒ぎが嘘のようだ。三条寺町の商店街にはマフラー姿の修学旅行生たちが押しかけ、土産物屋の前で鈴なりになっている。四条河原町の繁華街は買 い物の客で賑わい、鴨川の河原にはカップルがぽつぽつ出はじめた。ロウソクをかたち取った京都タワーに灯明がともる。その光景は、亀井が中学の修学旅行で 訪れたときよりも、さらにきらびやかだった。
 「ところで亀井さんは、うつ病じゃなかったんですか」
 唐突な太森の質問に、亀井はどぎまぎした。眠っていたなにかが急に呼び覚まされたような気がして、注意深く答えた。
 「違うっ、ていわれましたけど」
 「私もです。あとのき喫茶店で、内心、胸を撫でおろしてたんです。健康雑誌な
んかに記事を書いてるライターが心を病んでるなんて、シャレになりませんしね」
 そういうと、どうですお茶でも、と太森が人懐っこい顔でいった。
 亀井は体も心もすっかり疲れていたし、ちょっと一服したいなという気分だっ
た。
 「ねー、部長。ボク、お土産買いに行っていいですか。妻と先輩OLさんに渡さな
きゃ」
 「うむ。俺と太森さんはしばらくこの喫茶店におるから」
  雨季川の背中を軽く叩くと、亀井は太森と一緒に「パロアルト」という名前のやけに狭い喫茶店に入った。古びた店だ。焙煎した香ばしい豆の匂いが、殺伐とし た気持ちをやわらげてくれる。どこか陰のありそうなマスターが黙ったまま水とおしぼりと灰皿を出した。二人はカウンターの止り木に腰かけた。
 太森はハーブティーをカップに注ぎ、香りを嗅いで一口飲む。その隣で、うんと濃いコーヒーを注文した亀井は、ミルクと砂糖をたっぷり入れて、カップをそっと口元に運ぶ。ああ落ちついた、という独り言が自然に漏れる。
 太森はスレイヴを取り出してカップの隣に置き、そっとキーボードに指を添えた。何をしてるのですかと亀井が訊くと、今日のことをメモしていると答えた。太森の指はマシンを労るようにやさしく動き、キーを打つ音が心地よくポチポチと響いた。
 「取材メモなんです。コイツ、私の移動式編集室なんです」太森はちょっとはにかんだように答えると、あなたはどんなふうに使っているのですか、と訊ねてきた。
 「なんだかプロの物書きを前にして言うのも恥ずかしいんですけど、ちょっとした書き物をしようと思って」
 「ほほう、それであんなにたくさんの辞書を。じゃあ、小説とか、エッセイとか、それとも自叙伝かな」
 亀井は答えに窮した。説明しにくいのだ。
  そんなことよりも、はかどらない執筆をどうすればいいのか。書くコツのようなものを訊ねてみたいという気持ちが亀井にはあった。隣に坐っている太森は曲が りなりにも物書きである。まだ親友と呼べる間柄ではない。ひょっとすると、もう出会うことがないかも知れない。そんな気安さが勇気を与えてくれた。
 「とくにジャンルはないんですけど…… 書きたいと思ってることが書けないまま、なんだか思いだけが膨らんで腐っていくみたいになって」
 亀井は思い切って、どうすれば書けるようになるか、訊ねてみることにした。
 太森はこともなげに答えた。
 「パクればいいんですよ。世間で認められているような文体とか表現とか思想とかをドバドバ真似するんです」
 瞬間、亀井の胸に冷たいものが走った。
 そんなんじゃ、ジェリィ平賀と同じじゃないか。
 亀井の中で、太森への不信感がうごめきはじめた。フリーライターなんて稼業の男は、しょせん平賀と同じ穴のムジナなんだろうか。
 そんなんじゃ、本質的で根元的で普遍的なことは書けないではないかという意味のことを亀井が注意深く言うと、太森が吹き出した。
 「いやぁ失敬、失敬。業界が長いとどうもひねくれちゃって」それでも太森は肩を振るわせて笑っている。
 やっぱりマスコミ関係の奴は、どいつもこいつも、調子者ばかりでいかん。馬鹿にされたようなくやしさと腹立ちにまみれ、余計なことを言うんじゃなかったと後悔した。
 いいですか、と太森はまだ薄笑いを浮かべたまま言った。
  「文豪ドストエフスキーであろうと、天才科学者アインシュタインであろうと、アンディー・ウォルホールだろうと、フォン・ノイマンであろうと、まったくの ゼロからスタートしたとしたらどうなりますかね。つまり、幼いころにひとりずつ別々の無人島に捨てられていたとしたら」

 「そういう人たちはとても賢いから…きっと発明やら発見やらを…」
 「わーっはっはっは。そんなことあるはずない。たったひとりでなにができますか。文明の欠片も生み出せませんよ。言語体系だって、数の概念だってひとりで作り上げられるわけがない」
 太森はトカゲみたいな冷たい瞳で亀井を射すくめて「もうちょっと生意気言わせてもらっていいですか」と笑った。
 「ご自由に」少々亀井はムカついていた。
 「われわれは、太古の昔から営々と築かれてきた文化の城に住んでいるんです。そいつはいわば積み木の城のようなもので、あらゆる学問、芸術、技術、宗教、健康法といった情報が、先人たちによって営々と積み重ねられてきたんです。われらはその城の中で産まれたんですよ」
 亀井には太森がなにを言ってるのか飲み込めず、首をかしげるしかない。
  「ドストエフスキーも、アインシュタインも、城の中で産まれ、その遺産を吸収したからこそ、次の積み木をひとつ積み上げた。そして、人類の遺産を残して死 んでいった。円周率だって、いまじゃパソコンで何桁でも計算できますが、むかしはその計算に一生を費やした数学者もいた。つまり、われわれ人間は、えらい 人も普通の人も、みんな兵隊アリのようなものなんですよ」
 「じゃ、われわれは奴隷のような一生を送ってるって訳ですか」
 「そう思います、少なくとも私は」太森はゆっくりうなづく。
 「じゃ、女王アリは、どこのどいつなんだ」
  「学問、文化、芸術、技術、宗教、健康法っていう、いわゆる情報でしょうね。亀井さんがいくらこれまでにジャンルもなかった新しいものを書こうったって、 これまでに読んできた先達の作品の枠の中から抜け出ることは、あり得ないんです。むしろ、できるだけたくさん吸収して、それを肥やしにしなくちゃ」
 亀井は黙っていた。難癖をつけるべき言葉がなかった。
 「や、失礼なこと言ってしまいましたね。すいません、忘れてください。私はこれでたくさんの人を滅入らせちゃったんですから」
 人のことを笑っておいて、そういういいぐさはないではないか。亀井の額にしわが寄る。不快のアイコンである。
 「じゃあ、人間の想像力とか、閃きとかいうのはどうなるんですか。それに霊的な、その、霊感とかは。太森さんはそれも否定するっていうんですか」
 「すいません。もうやめましょう」
 「いや、答えてもらいたいな」
 マスターはカウンターの隅から心配そうな目を向け「テレビでも付けまひょか」
 「だーっとれ」亀井が怒鳴る。
  「じゃあいいましょう。私にいわせりゃ、そんなの作り話ですね。想像力とか閃きなんて存在しません。神の啓示やら仏の導き、なーんてのもインチキか、憑き 物の類です。みんな、いろんなところからインプットした情報を、脳の神経細胞の複雑なネットワークに潜ませてるんです。その回路の中で、弱い電気信号と微 少な神経伝達物質が行き来して、スイッチをつなげたり、分岐したりしてるだけ。複雑に絡み合った脳細胞のネットって、いわば複雑な社会みたいなものなんで す。だから、神様なんていない。神秘なんてないんですよ」
 そのとき、亀井の頭に一条の光が差し込み、オーケー和尚たちとのミーティングがフラッシュバックした。そうだ。人間はコピーする生存機械だったんだ!
  「二十年、健康ライターをしてきて、最近つくづく、人間は機械だって思うようになったんですよ。あれを食べれば体が長持ちする、こうすれば脳がよくなるっ ていうのは、西洋医学も東洋医学も根っこは同じ。体内で化学変化を起こさせるだけなんです。そういうの、機械に潤滑剤を流し込んだり、錆止めクリームを塗 るのと一緒でしょ。ただの物体。ただの機械…」太森は、ふと悲しげな作り笑いをした。
 だが、なぜか、亀井の表情は明るくなる。人類はさまざまな 情報を未来に伝える。それは視点を変えると、情報が生き延びるために人間を乗り継いでいるとも考えられる。ただし、そうした情報は、人間たちによって常に 生滅変化しつづけている。俺は一匹の哀れな兵隊アリなんかじゃないかも知れない。俺の脳細胞のネットには、人類が生み出したべらぼうに複雑で莫大な情報が 大量に埋め込まれている。俺は世界の一部であるのと同時に、世界は俺の脳の中にある。これって、素晴らしいじゃないか。
 「人間は素晴らしい機械ですよ。いいじゃないですか。それ、いいですよ。気が滅入るどころか、その、すこぶるだ。そう、すこぶるよろしい。ただの機械でおおいに結構」
 柱時計が鳴った。
 「テレビのニュース、つけてよろしおすやろか」
 洗い終わったコーヒーカップを布巾で拭いていたマスターがカウンターの端っこから訊ねた。亀井はうなづいた。
 --ニュースをお伝えします。
  アナウンサーは、権蔵社長のほかに福洒応恵容疑者ら合わせて四人が、電気通信法違反、電子計算機損壊等業務妨害、電磁的記録不正作出罪、電子計算機使用詐 欺罪、著作権法違反、公務執行妨害……で、京都府警に逮捕された、と伝えていた。モヒカンが乱闘しているシーンと和尚らが連行される場面が映し出された。
 「あ、亀井さんじゃない、あれ」太森がテレビを指さした。
 映っていたのは、どこにでもいるサラリーマン風の男の後ろ姿だった。まさかそれが自分だとわかる者はいるまい。そんな自信が亀井にはあった。
 「ほんとだ、よく似た機械があるもんだな」亀井は太森の肩を軽く叩いた。
 --えーっ、ただいま入りましたニュースです!
 アナウンサーは緊張気味に次のニュースを読み上げた。
 それは、京都府警のコンピューターがシステムダウンしたという内容だった。
  姉小路社から押収したマシンを調べていたところ、警察側のコンピューターにウイルスが侵入して、運転免許センターをはじめ、デジタル処理している警察無線 から京都府庁に京都市役所と、ネットワークにつながっていたあらゆるコンピューターのディスプレーに、文字が浮き出たままになったという。それがテレビに 映し出された。
 --不当捜査ぢゃ! あほ
 続いてテレビの男は、「静止軌道上のすべての通信衛星から放送局めがけて強力なジャミングが出され、衛星放送も地上波放送もオンエアできなくなり……」
 としゃべったところで、画面はいったん真っ暗になり、その後一分間、テレビの画面には、
 「知的所有権の保護も大切じゃが、一般人が著作物を公正使用できる権利も守らなあきまへん。闘いはまだ始まったばかりどす」
 という言葉が貼り付いたままになった。
 「やったな、爺さん!」
 太森と亀井は思わずガッツポーズを作った。
 少しだけ残っていたコーヒーの雫を飲み干すと、亀井は、カウンターの上で律儀に口を開けたまま、主人をじっと待っている「助松ゴロシ」をいとおしそうに見つめた。

 --とくにジャンルはない。

 電子の文字列が浮かんでいる。点滅するカーソルを見つめていると、相反する二つの衝動が、胃袋の裏側で、沸騰しはじめた。それは、表現することを支える二つの衝動。世界をコピーしたい、そして、世界にコピーされたい。
 やっぱり正解だったな、こいつを買ったのは。
 と、その時である。
 またまた、あの少年の日の思い出が蘇ってきたのだ。
 夕暮れの公園。過去の自分に伸ばした手を、引っ込めていちどは立ち去った亀井老人は、ふたたび亀井少年の後ろに立っていた。老人はずいぶんためらっていたが、ついに、勇気をふりしぼって、もういちど、少年の肩に手を伸ばした。
 指が、肩に触れた。
 奈落の底でものぞいてきたような顔の少年は、振り向きざまに老人の胸に飛び込み、泣きじゃくった。
  --ボクいつか死ぬの? 絶対死ぬの? 絶対に? じゃ、なんで生まれてきたの?なんのために人は、ボクは生きてるの? ボクは死にたくないよ。本当のこ とをいうよ。ボクは毎日アリを殺してたんだ。一日に一匹ずつ。でも、いくら殺しても、次の日には巣は元に戻っているし、なんともないんだ。毎日ぼくが殺し に来るっていうのに、こいつら、逃げもしない。そいで毎日々々、土の中から湧いてくる。殺しても殺しても。…ボクも、アリと一緒なの? なんのためにボク は生まれて、湧いてきたの? ボクの命なんて、あってもなくてもいいの? ねえ、魂は生き残るの?
 亀井老人は、少年を強く抱きしめた。
  --おまえが生まれてきたのは、ほんの偶然だ。おまえひとりなど、いてもいなくても、この世の中、全然困らない。おまえひとりが生きる意味なんてない。お まえはいずれ死ぬ。そして、すべてが終わる。魂なんてない。わたしを見るんだ。わたしは未来のおまえだ。そして間もなく体が壊れて動かなくなって、死ぬ。 この世から消えてなくなる。
 --いやだ。ボクは死にたくない。
 --目をそむけちゃいけない。意味もなく生まれて、意味もなく死ぬ。た だ、おまえが生きていた証しは、少し残る。おまえは将来、敦子という女性に惹かれ、一緒に暮らすようになる。そしてヒロミという女の子が生まれる。ヒロミ は、おまえと敦子の、良いところと悪いところをだいたい半分ずつ受け継ぐ。ヒロミも大きくなると、男性と一緒に暮らすようになって、お前の良いところと悪 いところを四分の一ずつ受け継いだ子供が生まれる。そうして、おまえという人間は薄まりながらも、生き続ける。それだけじゃない。お前が残した言葉、振る 舞い、雰囲気、ジョークといったものが、みんなの脳にコピーされて、思い出として、しばらくの間、生き続ける。
 そこまでいうと、老人はひどく咳こんだ。胸を病んでいるようだ。
  --これだけは教えておいてやる。おまえは四十歳になったころ、小さなパソコンを買う。お前はそれで自分の思いをたっぷりつづることになる。そして、それ は、思いのほか、多くの人に読まれることになる。だが、お前自身も、いろんな人たちの残した情報を受け継いで、ようやくそれを書くことができたということ を忘れるんじゃない。あらゆる人間は情報で結ばれ、つながっているんだ。お前ひとりで生み出したと思っている情報も、決しておまえひとりのものではない。
 --でも、最後はなくなっちゃうんでしょ。なにもかも。
  --そうだ。最後は死ぬ。だがわたしは怖くない。たまたま生まれてきて、生きて、消えていく。それで満足だ。まっとうに、面白おかしく、冗談ばっかり言い ながら、きょうまで生きてきたんだから。それ以上なにが欲しい。生きていようと、死んでしまおうとも、わたしは大きな大きな流れの中にいる。だって、わた しは世界の一部じゃないか。
 と、そこへ、またあのジェリィ平賀が、例の調子でマイクを手にヘラヘラ現れた。
 --ねぇ、ねぇ、ちょっとぉ~
 平賀がマイクを突きつけてきた瞬間、亀井老人は素早く飛び退くと、手に持っていたステッキで平賀の脳天をかち割った。
 --どりゃー!
 火花が散り、雷が鳴った。吹雪まじりの暴風が吹き荒れ、空が真っ赤に燃える。沸き上がる喝采。花束と座布団が飛び交い、魚の鱗でできたミラーボールがはじける。打ち上げ花火と、おひねりの投げ銭が宙を舞う。
 --たはっ。ぼくらはブニョブニョした機械だったんだね。
 --なはっ。そうさ、わたしらはユラユラ揺らめく情報だったんだ。
 老人は満面に笑みをたたえながら、少年の涙をぬぐってやると、肩を抱いて高笑いした。
 --腹の底から笑い飛ばせ。死を笑うんだ。生を笑ってしまえ。面白おかしくやるんだ。いくら探したって、そいつを見つけることはできない。本質的で根元的で普遍的なものなどないのだからな。
 たはっ。なはははっ。がははははは……。
 「だ、大丈夫ですか、亀井さん」太森が心配そうにのぞき込む。
 わーはっはっはっは……。
 亀井は、スレイヴの画面を見つめているうちに、なぜだか、笑いが止まらなくなった。
 漆黒の画面の向こう側で、情報と機械がひしと抱き合い、あるいは殴り合い、ときにランバダ、あるいはサルサ、はたまたポルカを踊っているのが、ぼうっと浮き上がって見える。
 そして、亀井がスレイヴに手を伸ばして電源を切った瞬間、亀井も、太森も、スレイヴも喫茶店も、世界の何もかもがスレイヴの画面から消えた。


(了)

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